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白河上皇が院政を開始の浮世絵イラスト
摂関政治から院政へ ①中学/政治
1086

白河上皇が院政を開始

白河上皇(第72代・73代天皇・上皇)
語呂
覚え方
入れやろう 白河院政
入れ(10)や(8)ろう(6)白河院政 = 1086

1086年(応徳3年)、白河天皇は8歳の堀河天皇に位を譲り、自らは上皇となりました。しかしそのまま引退したわけではありません。上皇の御所(院)に院庁を設け、そこから政務の指令を出し続けたのです。これが「院政」の始まりです。摂関家(藤原氏)が幼少の天皇を後見することで権力を握る「摂関政治」を無力化し、天皇家自身が実権を取り戻す画期的な仕組みでした。院政はその後、鳥羽上皇・後白河上皇へと受け継がれ、1185年の鎌倉幕府成立まで約100年にわたり日本の政治を主導しました。

この記事のポイント

  • 1086年、白河天皇が堀河天皇(8歳)に譲位し上皇となって院政を開始
  • 上皇の御所(院)に院庁を置き、院宣・院庁下文で政務を指揮
  • 院の警護・軍事力として「北面の武士」を設置し武士を組織化
  • 藤原氏の摂関政治を相対的に弱体化させ、天皇家が実権を回復
  • 後の鳥羽・後白河院政へと続き、保元の乱(1156)など武士台頭の背景となる
ここが面白い

天皇を辞めた方が権力を持てる――白河上皇が編み出した逆転の統治術。

ここに至るまでの流れ
背景

院政が生まれた背景には、平安中期から続く藤原氏の摂関政治と、それへの天皇家の対抗があります。白河天皇が院政を開始するまでの流れを整理してみましょう。

摂関政治とは何か

藤原道長・頼通の時代(11世紀前半)に頂点を迎えた摂関政治では、天皇の外祖父や伯父にあたる藤原氏が摂政・関白として政務を取り仕切りました。幼少の天皇を立て、自分の娘を后に入れ、生まれた皇子を次の天皇にするという繰り返しで権力を維持したのです。

藤原頼通の失脚と摂関家の衰え

しかし後一条・後朱雀・後冷泉の三代の天皇に娘を入内させた藤原頼通は、一人も皇子を得られませんでした。後冷泉天皇が1068年に崩御すると、頼通と外戚関係のない後三条天皇が即位。後三条天皇は記録荘園券契所を設けて荘園整理を進めるなど、摂関家に頼らない親政を断行しました。

白河天皇の即位と課題

後三条天皇の第一皇子として即位した白河天皇(1072年即位)も、藤原氏との外戚関係が薄く、成人後も摂関家の介入を受けやすい立場でした。そこで考えられた打開策が「退位して上皇となり、摂関家の影響を受けない立場から政治を主導する」という逆転の発想でした。

1086年、院政の開始

1086年、白河天皇はわずか8歳の堀河天皇に位を譲り、上皇となりました。院庁を設けて院宣(上皇の命令文書)を発し、人事・政務を掌握。藤原師通ら摂関家の者が関白職にあっても、実質的な権力は院が握る体制が始まりました。白河上皇はその後、鳥羽・崇徳と3代の天皇の治世を通じ、1129年に没するまで43年間にわたり院政を続けました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

院庁の設置

≒ 上皇の私的機関が国家の中枢に

上皇の御所(院)に置かれた院庁が、太政官を経由せずに政令(院庁下文)を発することで、国家意思決定を院が掌握した。

北面の武士の設置

≒ 院の直属軍事組織

院の御所の北面(北側の警備)を担う武士団を組織化。武士を朝廷政治に組み込む先駆けとなり、平氏・源氏の台頭を促す背景になった。

知行国制度の活用

≒ 国単位の人事権で財源確保

特定の国の支配権(知行国)を皇族・院の近臣に与え、そこからの収入を院の財源にする仕組みを拡大。院政の経済的基盤となった。

前後のできごと
年表
1068
後三条即位藤原氏と外戚関係の薄い後三条天皇が即位。摂関政治の衰えが始まる。
1072
白河即位後三条天皇の第一皇子・白河天皇が即位。
1086
院政開始白河天皇が堀河天皇(8歳)に譲位し上皇に。院庁を設けて院政を開始。
1087
北面の武士院御所の警備のため北面の武士を設置。武士が院政を軍事面で支える。
1107
鳥羽天皇即位堀河天皇崩御後、鳥羽天皇が即位。白河上皇の院政が継続。
1129
白河上皇没白河上皇が77歳で崩御。以後、鳥羽上皇が院政を引き継ぐ。
1156
保元の乱後白河天皇 vs 崇徳上皇の皇位継承争いが武力衝突に。院政下の矛盾が噴出。
結果とその後
結果
天皇家が摂関家(藤原氏)から実権を取り戻し、天皇家主導の政治が約100年続いた。
院が武士(北面の武士・平氏・源氏)を組み込んだことで武士の政治的地位が上昇し、保元の乱(1156)・平治の乱(1159)を経て平清盛の台頭へとつながった。
登場人物
人物

白河上皇

第72代天皇・院政の創始者

1053年生〜1129年没。在位1072〜1086年。上皇・法皇として43年間院政を主導。「天下三不如意(鴨川の水・双六の賽・山法師)」という言葉が伝わる。

堀河天皇

第73代天皇(白河上皇の子)

1079年生〜1107年没。8歳で即位。院政下の天皇として在位し、白河上皇の強い後見を受けた。

後三条天皇

白河天皇の父・院政の先駆け

1034年生〜1073年没。摂関家と外戚関係がなく、自ら親政を断行した。院政の直接的な前史を作った天皇。

藤原師通

関白(摂関家)

藤原頼通の孫。白河院政の開始後も関白職にあったが、実権は院が握っており摂関の地位は形骸化した。

平正盛・忠盛

北面の武士・平氏の台頭

院に仕えた武士の代表。平忠盛(清盛の父)は院政との関係を深め、平氏が中央政界に進出する足がかりを作った。

キーワード解説
用語
院政
天皇を退位した上皇(法皇)が、院庁を拠点として政務を主導する政治形態。1086年の白河上皇に始まり、鎌倉幕府成立まで続く。
院庁
上皇の御所(院)に置かれた政務機関。院庁下文・院宣を発して政務を行い、実質的に太政官を上回る機能を果たした。
北面の武士
院御所の北面(北側)の警護を担う武士団。院政下で組織化され、平氏・源氏など有力武士が任じられた。武士の中央政界進出の画期となった。
摂関政治
藤原氏が摂政・関白として天皇を後見し権力を握る政治形態。藤原道長・頼通の時代に全盛。院政の台頭とともに相対的に衰退した。
知行国
特定の国の支配権を与えられた人物(知行国主)が、国司の任命権や収益を得る制度。院政の財源基盤として活用された。
院宣
上皇の意思を伝える文書。太政官符・宣旨に相当する権威を持ち、院政の命令を各方面に伝達した。
もっと知りたい
豆知識

1「天下三不如意」――白河上皇の嘆き

「鴨川の水(氾濫)・双六の賽(出目)・山法師(延暦寺の僧兵)だけは思い通りにならない」と白河上皇が語ったとされる。圧倒的な権力を持ちながら、自然・賭け事・宗教勢力だけはどうにもならなかった嘆きを伝える逸話として有名。

2院政は「天皇を辞めた方が強い」仕組み

摂関政治のもとでは、天皇が成人しても摂関家の外戚が補佐するため自由に動けなかった。上皇になれば摂関家の「幼帝を後見する」という大義名分が通じないうえ、退位した上皇には慣例上の制約もなく自由に政治決定ができた。逆転の発想が院政を生んだ。

3院政期に武士が急成長

院が武士を北面の武士として直接組織したことで、武士は単なる地方の実力者から中央政界のプレーヤーへと変化した。平正盛・忠盛・清盛の平氏三代は院との関係を足がかりに急速に台頭し、やがて1167年に平清盛が太政大臣に就任するまでになる。

4院政は「上皇が一人」とは限らない

院政期には複数の上皇(治天の君・先の上皇・法皇)が並立することもあり、誰が実権を持つかをめぐって争いが起きた。保元の乱(1156)はまさに後白河天皇と崇徳上皇という二つの「院」の正統性争いが武力衝突に発展した例。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
院政開始は1086年(応徳3年)、白河天皇が堀河天皇に譲位した年。語呂は「入れやろう(1086)白河院政」。
摂関政治との違い:摂関政治は藤原氏(外戚)が主導、院政は天皇家(上皇)が主導。院政は摂関家の影響を抑えた。
北面の武士:院の直属武士団。武士の中央政界進出・平氏台頭の背景となる。
院政の流れ:白河→鳥羽→後白河。保元の乱(1156)・平治の乱(1159)を経て平清盛の台頭へ。
院政は1185年の鎌倉幕府(守護・地頭の設置)で事実上終わりを迎える。
語呂クイズ
「入れやろう 白河院政」= 白河上皇が院政を開始は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 院政とは何ですか?
A. 天皇を退位した上皇が、院(御所)に設けた院庁を拠点として政務を主導する政治形態です。1086年に白河上皇が始めました。
Q. 摂関政治と院政の違いは何ですか?
A. 摂関政治は藤原氏(天皇の外戚)が摂政・関白として実権を握る形。院政は天皇家の上皇が自ら実権を握る形で、藤原氏の影響を弱めました。
Q. 北面の武士とは何ですか?
A. 院の御所の北面(北側)を警護するために組織された武士団です。院政下で武士が中央政界に組み込まれる契機となりました。
Q. 院政はいつまで続きましたか?
A. 1086年の白河院政から、鎌倉幕府が守護・地頭を設置する1185年ごろまで約100年続きました。その後も形式上は続きますが、武家政権の台頭により政治的実権は大幅に弱まります。
Q. 院政は保元の乱とどう関係しますか?
A. 院政期には複数の上皇が並立し、誰が「治天の君」かをめぐる対立が起きました。1156年の保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の対立に武士が動員された武力衝突で、武士が本格的に中央政治に介入する転換点となりました。
まとめ

白河上皇が1086年に始めた院政は、「天皇を辞めた方が権力を持てる」という逆転の発想で摂関政治に風穴を開けました。院庁と北面の武士を軸とする院政は、天皇家の実権回復に成功する一方、武士を政治の中枢に引き込むことになりました。その結果、保元の乱・平治の乱を経て平清盛が台頭し、やがて鎌倉幕府の成立へとつながります。「入れやろう(1086)白河院政」の語呂とともに、摂関政治から武家政権への橋渡しとなった変革として押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
北面の武士の設置年は諸説あり(1087年説が有力)。記事では「院政開始直後」として断定を避けた。
白河上皇の「天下三不如意」は院政権力の大きさを示す逸話として広く知られるが、史料上の出典は後世の編纂物による。断定表現を避け「伝わる」とした。
院政の終焉時期は1185年(守護・地頭設置)とするのが一般的だが、形式的には江戸時代まで院政の名残がある。記事では「実質的な終わり」として1185年を採用。