地方武士の台頭 ①高校/戦乱
935
承平天慶の乱(平将門・藤原純友)
平将門(東国の武士)・藤原純友(伊予の武士・海賊の棟梁)
語呂
覚え方
草に粉(こ)、将門・純友の乱
草(93=く・さ)に粉(こ=5)
935年(承平5年)、関東で平将門が一族との私闘に勝ち、勢力を拡大し始めました。939年には常陸・下野・上野の国府を次々と攻め落とし、みずから「新皇」と称して朝廷への反旗を翻します。これが平将門の乱です。同じころ、瀬戸内では藤原純友が伊予の海賊を率いて939年頃に挙兵し、大宰府をも攻め落としました。これが藤原純友の乱です。朝廷はこの二つの反乱をまとめて「承平・天慶の乱」と呼びます。将門は940年に藤原秀郷・平貞盛らに討たれ、純友も941年に追討されて乱は終結。注目すべきは、鎮圧したのも武士だったという点です。この乱は地方武士の台頭を世に示した画期的な出来事でした。
この記事のポイント
- 935年、平将門が関東で一族との私闘に勝ち、勢力を拡大(承平年間の始まり)
- 939年、将門が関東の国府を次々攻略し「新皇」を称して独立政権を樹立(天慶年間)
- 同じく939年頃、藤原純友が瀬戸内の海賊を率いて挙兵し、941年に大宰府を攻落
- 将門は940年に藤原秀郷・平貞盛に討たれ、純友は941年に討伐される
- 朝廷ではなく武士が武士を鎮圧した点が重要で、以後の武士台頭を予告した乱
ここが面白い「武士が武士を倒した」初めての大反乱。将門は自ら「新皇」を名乗り、東国に独立政権を作ろうとした。
承平・天慶の乱は突然起きたわけではありません。律令制が崩れ、地方に武士が育ち始めた平安時代中期の社会構造の変化が背景にあります。なぜこの時期に二つの大反乱が同時に起きたのか、流れをたどってみましょう。
律令制の弛緩と武士の発生
奈良時代に整備された律令制では、国司が各地を統治し、農民は口分田で農業を営む建前でした。しかし9世紀になると班田収授が実質的に機能しなくなり、有力農民が土地を私有化し始めます。土地を守るため彼らは自ら武装し、やがて「武士」と呼ばれる階層が生まれました。
摂関政治と地方支配の空洞化
京都では藤原氏が摂政・関白として権力を握り、摂関政治が全盛を迎えていました。貴族たちは地方の実態に関心を持たず、国司の職を私的な利権として扱いました。現地に赴任しない遥任国司も増え、地方支配は実質的に地元の有力者に委ねられていきました。
東国に広がった坂東武者の世界
関東(坂東)では桓武平氏の子孫が各地に根を張り、強大な武力集団を形成していました。平将門もそのひとりで、父や祖父の代から関東に土着し、騎馬戦術に優れた武士として名を馳せていました。一族内の土地争いや婚姻をめぐる対立が、やがて乱の火種となりました。
瀬戸内の海賊問題
一方、西国では瀬戸内海の海賊が深刻な社会問題になっていました。朝廷は追捕使(海賊鎮圧官)として藤原純友を伊予に派遣しましたが、純友は現地の海賊集団の実力者となり、やがてみずから海賊の棟梁として反乱を起こします。中央が地方を制御できなくなっていた証左です。
将門が「新皇」を称す
≒ 東国に独立政権を宣言する939年、将門は関東8か国の国府を制圧し、みずから「新皇」を称して独自の朝廷を作ろうとした。京都の朝廷は衝撃を受け、討伐軍を編成した。
藤原秀郷・平貞盛が将門を討つ
≒ 朝廷の命を受けた武士が武士を鎮圧する940年、下野の武士・藤原秀郷と将門の従兄弟・平貞盛が連合し、下総国の合戦で将門を討ち取った。朝廷の軍ではなく東国の武士が乱を収拾した点が重要。
藤原純友の乱と大宰府陥落
≒ 海賊連合が西国の政治中枢を占拠する941年、純友率いる海賊集団が大宰府を攻め落とした。朝廷は追討使・小野好古と源経基を派遣し、純友を討伐。乱は東西ほぼ同時に終結した。
935発端平将門が一族(伯父の平国香ら)との私闘に勝利し、関東で影響力を拡大し始める。承平5年。
939挙兵将門が常陸・下野・上野の国府を攻略。「新皇」を称し東国独立政権を樹立。藤原純友も瀬戸内で挙兵。天慶2年。
940将門討死藤原秀郷・平貞盛が連合し、下総国での合戦で将門を討ち取る。天慶3年。
941純友討伐純友が大宰府を陥落させるも、小野好古・源経基に追討され純友は伊予で捕らえられ処刑。天慶4年。
1016摂関全盛藤原道長が摂政に就任。武士の台頭という伏流は続くが、摂関政治が表向きの頂点を迎える。
1051前九年合戦東北で前九年合戦が始まる。源頼義・義家が活躍し、武士の中央政治への関与が深まる。
◎将門・純友をともに鎮圧し朝廷の支配が一時的に回復した。
△鎮圧したのが武士(藤原秀郷・平貞盛・源経基ら)であったことで、武士の政治的・軍事的地位が飛躍的に高まり、以後の武士社会成立への道が開かれた。
平将門
桓武平氏の武士・東国の大武士団長「新皇」を称して東国に独立政権を作ろうとしたが940年に討たれる。死後、首が京都に運ばれたが、伝説では首が東国へ飛び帰ったとも。江戸時代以降、神田明神(東京)に祀られる。
藤原純友
伊予の追捕使から海賊の棟梁へ転じた武士瀬戸内海の海賊を率いて941年に大宰府を攻落。その後追討されて敗死。
藤原秀郷
下野国の武士(俵藤太とも呼ばれる)平将門討伐の主力。将門を射て討ち取ったとされる。百足退治の伝説でも知られる。
平貞盛
平将門の従兄弟将門との一族争いのなかで朝廷側に立ち、秀郷とともに将門を討伐。のちの伊勢平氏の祖。
小野好古
朝廷が派遣した追討使源経基とともに藤原純友の討伐にあたり、西国の乱を鎮めた。
- 承平・天慶の乱
- 935年(承平5年)に始まる平将門の乱と、939年頃に始まる藤原純友の乱の総称。二つの乱が同時進行したことから、当時の年号(承平・天慶)を合わせた呼び名が定着した。
- 新皇
- 平将門が939年に自称した称号。既存の天皇に対抗して東国に独立した「皇」権力を打ち立てようとした宣言で、朝廷を大いに震撼させた。
- 坂東武者
- 東国(坂東=関東)に根を張った武士の総称。騎馬戦術を得意とし、平安末期以降の武家政権成立の担い手となった。
- 追捕使
- 朝廷が海賊や賊徒の鎮圧のために各地に派遣した役職。藤原純友はもともと伊予の追捕使として派遣されたが、のちに海賊側に転じた。
1将門の首は空を飛んで東国へ帰った?
将門が討たれた後、その首は京都に送られて晒されたと伝わる。しかし伝説によれば、三日目に首が空を飛んで東国へ帰り、落下した場所が将門の塚(現・東京都千代田区大手町)とされる。将門の怨霊を恐れた人々が手厚く祀ったのが始まりで、その信仰は現代まで続いている。
2神田明神で今も祀られる将門
平将門は江戸時代以降、神田明神(東京都千代田区)に主祭神のひとりとして祀られている。江戸幕府は江戸の守護神として将門を重視し、明治時代に一度外されたものの戦後に復帰。今も多くの参拝者が訪れる。
3「俵藤太」と百足退治の伝説
将門を討った藤原秀郷には「俵藤太(たわらのとうた)」という異名があり、琵琶湖の大百足(ムカデ)を退治した英雄として民間説話に登場する。勇猛な武士のイメージが伝説と結びついて語り継がれた。
4東西同時発生は偶然か
将門の乱(東国)と純友の乱(西国)がほぼ同時期に起きたのは偶然とされる。両者が連絡・連携していたという確実な史料はなく、むしろ律令制の弛緩という共通の社会背景が各地で同時に噴出した、と歴史家は見ている。
5朝廷が真っ青になった「新皇」宣言
将門の「新皇」称号宣言は、朝廷に激震を走らせた。京都では祈祷や占いが繰り返され、武力よりも呪術的対応が先行したという。この対応の遅さ・非力さが、武士に頼らざるを得ない朝廷の実態を露わにした。

ここが出る博士のワンポイント
935年は承平の私闘の始まり。939年に「新皇」宣言・国府制圧・純友挙兵と乱が本格化する点を整理する。
将門を討ったのは朝廷の軍ではなく武士(藤原秀郷・平貞盛)である点が最重要。
純友を討ったのは小野好古・源経基。東の将門・西の純友、それぞれの討伐者をセットで覚える。
語呂:草(93=くさ)に粉(こ=5)、将門・純友の乱 → 9・3・5 → 935年。
承平天慶の乱は武士が歴史の表舞台に登場した画期として、武士の台頭→院政→武家政権の流れと結びつけて理解する。
語呂クイズ
「草に粉(こ)、将門・純友の乱」= 承平天慶の乱(平将門・藤原純友)は西暦何年?
- Q. 承平・天慶の乱とは何ですか?
- A. 935年(承平5年)に始まる平将門の乱(東国)と、939年頃に始まる藤原純友の乱(西国)の二つの反乱の総称です。二つの乱が起きた年号(承平・天慶)を合わせた呼び名です。
- Q. 平将門はなぜ「新皇」を名乗ったのですか?
- A. 939年に関東8か国の国府を制圧した将門は、みずから天皇に相当する「新皇」を称し、東国に独立した政権を作ろうとしました。既存の天皇体制に真っ向から挑戦した宣言です。
- Q. 平将門を討ったのは誰ですか?
- A. 下野国の武士・藤原秀郷と、将門の従兄弟・平貞盛です。940年、下総国での合戦で将門を射て討ち取りました。朝廷の正規軍ではなく東国の武士が鎮圧した点が重要です。
- Q. 藤原純友はなぜ反乱を起こしたのですか?
- A. もともと朝廷から伊予の追捕使(海賊鎮圧担当)として派遣された純友が、現地の海賊集団の実力者となり、やがて自ら海賊の棟梁として挙兵しました。939年頃から本格的に活動し、941年には大宰府を攻落させました。
- Q. 平将門は今もどこかで祀られていますか?
- A. はい。東京都千代田区の神田明神(神田神社)に主祭神のひとりとして祀られています。また同区大手町には「将門塚」があり、現代でも慰霊が続けられています。
承平・天慶の乱は、二人の武士が同時に朝廷に反旗を翻した前例のない大事件でした。この乱で最も重要なのは「武士が武士を倒した」という事実です。朝廷は自前の軍事力を持たず、地方の武士に頼るしかありませんでした。将門を討った藤原秀郷・平貞盛、純友を討った小野好古・源経基の活躍は、武士が社会の実力者として歴史に登場した瞬間です。「草(93=くさ)に粉(こ=5)」の語呂で935年を押さえつつ、939年の「新皇」宣言・940年の将門討死・941年の純友討伐という流れもセットで理解しましょう。
編集メモ(ファクト)
935年は将門が承平の私闘(一族内争い)に勝利した年。「新皇」宣言・国府制圧は939年(天慶2年)。
純友の乱は939年頃の挙兵・941年の大宰府攻落・同年討伐が骨格。
将門は神田明神の主祭神のひとりだが、明治期に一時外された経緯がある(戦後に復帰)。
両乱の連携を示す確実な史料はなく、同時発生は偶然と現在の通説は見ている。