律令国家の文化整備 ②高校/文化
720
日本書紀の完成
舎人親王(とねりしんのう・天武天皇の皇子、編纂の総責任者)
720年(養老4年)、舎人親王を中心とする編纂チームが『日本書紀』を完成させました。神代の始まりから持統天皇の時代(697年)まで、全30巻にわたる日本最初の官撰正史(国が正式に編んだ歴史書)です。漢文・編年体(年代順)で記され、中国や朝鮮に向けて「日本は文明国である」と示す対外的な意味を強く持っていました。同じく奈良時代初期に完成した『古事記』(712年)と並んで「記紀」と呼ばれますが、両者の性格はまったく異なります。書紀はその後も続く六国史(りっこくし)の最初の一冊として、日本の歴史叙述の出発点となりました。
この記事のポイント
- 720年(養老4年)、舎人親王を総責任者として『日本書紀』が完成
- 日本最初の官撰正史。漢文・編年体(年代順記述)、全30巻
- 神代(天地開闢)から持統天皇(697年譲位)までを記録
- 対外的・外交的性格が強く、中国や朝鮮への「文明国アピール」を担った
- 続日本紀など後に続く六国史(6冊の国家正史)の第1巻にあたる
- 8年先に完成した『古事記』(712年)と合わせて「記紀」と称される
ここが面白い「正史」として漢文で書かれた書紀と、和文的な古事記――8年しか違わない2冊は、そもそも目的が違っていた。
『日本書紀』は突然生まれた書物ではありません。天武天皇の時代に編纂が始まり、数十年をかけて完成しました。その背景には、律令国家の確立と東アジアの国際情勢があります。
編纂の始まりは天武天皇の時代
681年(天武10年)、天武天皇は川島皇子らに「帝紀と上古の事を記し定めよ」と命じました。これが記紀編纂の出発点です。天武天皇は壬申の乱(672年)で即位した天皇であり、自らの権威と天皇家の正統性を歴史的に裏付ける必要がありました。
『古事記』との同時並行
同じ時期に稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた帝紀・旧辞を、太安万侶(おおのやすまろ)が712年(和銅5年)に書き記したものが『古事記』です。全3巻・和文的な表現で、国内向けの神話・伝承をまとめたものでした。書紀はこれとは別に、より公式な正史として漢文で作成が進められました。
東アジアの国際秩序と漢文の選択
当時の東アジアでは、中国(唐)の文化・制度が国際標準でした。朝廷は漢文・編年体という中国正史のフォーマットを採用することで、「日本も正式な歴史を持つ文明国だ」と示そうとしました。使節として大陸と行き来する外交の場でも、正史の存在は国家の信用を高めるものでした。
舎人親王を中心とした編纂
編纂の総責任者は天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)でした。多くの史人(ふひと)・学者が協力し、国内の記録や中国・朝鮮の文献も参照しながら約40年をかけて完成させました。720年(養老4年)、元正天皇の時代に朝廷へ献上されました。
漢文・編年体で書かれた正史
≒ 国際標準フォーマットで作った公式記録中国の正史(史記・漢書など)と同じ漢文・編年体を採用。国内だけでなく大陸にも通用する形式で日本の歴史を提示した。
神代から持統天皇まで全30巻
≒ 創世記から現代史まで網羅した国史第1・2巻が神代(天地開闢・天照大神など)、第3巻以降が神武天皇から持統天皇(697年)まで。古事記(全3巻)より大幅に詳しく系統的にまとめた。
六国史の第一巻
≒ シリーズ正史の「第1号」書紀を皮切りに、続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録の計6冊(六国史)が後に編まれた。書紀はその最初にあたる。
672壬申の乱天武天皇が即位。権威確立のため歴史編纂の必要性が高まる。
681編纂命令天武天皇が川島皇子らに帝紀・旧辞の記録を命じる。記紀編纂の出発点。
701大宝律令律令国家体制が完成。文化・制度の整備が加速する。
710平城京遷都奈良に都が移り、律令国家としての文化的隆盛が始まる。
712古事記完成太安万侶が稗田阿礼の暗唱をもとに『古事記』を完成。和文的・国内向けの歴史書。
720日本書紀完成舎人親王を中心に『日本書紀』完成。漢文・編年体・全30巻。日本初の官撰正史。
797続日本紀六国史の第2巻『続日本紀』が完成。書紀以降の歴史を記録。
◎日本が東アジアの国際秩序の中で「正史を持つ文明国」としての地位を確立した。天皇家の正統性を歴史的に裏付ける公式記録となり、以後の六国史編纂の出発点となった。
△漢文・編年体という「外国向け」のフォーマットで書かれたため、古事記と比べて神話・伝承の記述が整理・修正されている部分も多い。史料批判の観点からは、記紀の記述を鵜呑みにせず比較検討することが重要とされる。
舎人親王(とねりしんのう)
編纂の総責任者天武天皇の皇子。『日本書紀』完成後に太上天皇に準ずる扱いを受けた。のちの奈良麻呂の変(757年)でその子が関わるなど、政治的にも重要な家系。
太安万侶(おおのやすまろ)
古事記の撰者『古事記』(712年)の撰者として名高い。書紀編纂にも何らかの形で関与したとされるが、詳細は不明。1979年に奈良市で墓誌が発見された。
天武天皇
編纂を命じた天皇681年に記紀編纂を命じた。壬申の乱で即位した天皇であり、歴史編纂による権威確立を意図した。書紀完成を見ずに686年に崩御。
元正天皇(げんしょうてんのう)
書紀を受け取った天皇720年(養老4年)に舎人親王から書紀の献上を受けた。女性天皇(第44代)。
稗田阿礼(ひえだのあれ)
古事記の語り部天武天皇の命で帝紀・旧辞を暗唱・整理した人物。その内容を太安万侶が筆記したものが古事記となった。
- 官撰正史(かんせんせいし)
- 国(朝廷)が公式に編纂した歴史書。個人が書いた私撰の歴史書と区別される。『日本書紀』は日本最初の官撰正史。
- 編年体(へんねんたい)
- 出来事を年代順に記述する歴史書の形式。中国の正史で広く採用された。『日本書紀』もこの形式を採用した。
- 六国史(りっこくし)
- 奈良〜平安時代に朝廷が編纂した6冊の正史の総称。①日本書紀②続日本紀③日本後紀④続日本後紀⑤日本文徳天皇実録⑥日本三代実録。
- 記紀(きき)
- 『古事記』と『日本書紀』をまとめて呼ぶ総称。両書は神代から推古・持統朝頃までを扱う点で共通するが、性格・文体・目的が大きく異なる。
- 漢文(かんぶん)
- 中国の文語(書き言葉)。当時の東アジアの国際的な書き言葉であり、正史・外交文書・法律はすべて漢文で記された。
1古事記と書紀――8年しか違わない「姉妹書」の別目的
古事記(712年)は稗田阿礼の暗唱をもとに太安万侶が筆記した全3巻で、和文的な表現を多く含み、神話・伝承の「生き生きした語り」が特徴。国内の人々に天皇家の由来を伝えるための書物とされる。一方の書紀(720年)は漢文・編年体・全30巻で、中国・朝鮮に向けた「格式ある正史」。同じ題材を扱いながら、古事記と書紀では神話の内容が微妙に異なる箇所も多い。
2「を=0」の語呂の仕組み
語呂「なにを(720)」は、な=7、に=2、を=0 に対応する。「を」を0に当てる語呂は日本史でよく登場する定番の読み替えで、覚え方のコツとして「わ行の最後・ゼロ」と整理すると他の年号にも応用できる。
3太安万侶の墓誌が約1250年後に発見された
1979年、奈良市此瀬町で太安万侶の墓誌(銅板)が偶然発見された。「古事記」の撰者として文献に名前が残るものの実在を疑う説もあったが、この発見で実在が確認された。現在は奈良国立博物館に収蔵されている。
4書紀には複数の「異伝」が並記されている
『日本書紀』の神代(神話)部分には「一書に曰く(いっしょにいわく)」として複数の異なる伝承が並列記載されている。これは中国の正史スタイルで異説を併記したもので、編者が一つの正解に絞らず複数の語り伝えを残した証拠でもある。
5完成まで約40年かかった大プロジェクト
681年の編纂命令から720年の完成まで約40年。その間に天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇と5人の天皇が交代した。複数世代にわたる国家事業だったことが分かる。

ここが出る博士のワンポイント
成立年720年・養老4年。語呂は「なにを(720)記す日本書紀」。
編纂の中心は舎人親王(天武天皇の皇子)。撰者として名が挙がることが多い。
漢文・編年体・全30巻・日本初の官撰正史・六国史の第一という5点セットで押さえる。
『古事記』(712年・太安万侶・稗田阿礼・和文的・国内向け)との違いを問われることが多い。
神代から持統天皇(697年)まで記録。奈良時代初期の完成であることに注意。
語呂クイズ
「何を記す日本書紀」= 日本書紀の完成は西暦何年?
- Q. 『日本書紀』はいつ、誰がつくったのですか?
- A. 720年(養老4年)に舎人親王を中心とする編纂チームが完成させました。編纂の命令は681年(天武天皇の時代)に出されており、約40年かけて作られた国家事業です。
- Q. 『古事記』と『日本書紀』の違いは何ですか?
- A. 古事記(712年完成)は全3巻・和文的な表現が多く、国内向けの神話・伝承集的な性格を持ちます。日本書紀(720年完成)は全30巻・漢文・編年体で、中国・朝鮮に示す対外的な「正史」として作られました。どちらも天皇家の歴史を扱いますが、目的・文体・ボリュームが大きく異なります。
- Q. 「六国史」とは何ですか?
- A. 奈良〜平安時代に朝廷が編纂した6冊の正史の総称です。①日本書紀(720年)②続日本紀(797年)③日本後紀(840年)④続日本後紀(869年)⑤日本文徳天皇実録(879年)⑥日本三代実録(901年)の順で編まれ、日本書紀がその第一巻にあたります。
- Q. なぜ漢文で書かれたのですか?
- A. 当時の東アジアでは漢文が国際的な書き言葉であり、中国・朝鮮との外交や文化交流の場では漢文が通用言語でした。日本が「正史を持つ文明国」であることを示すために、中国の正史と同じ漢文・編年体の形式が採用されました。
- Q. どこまでの歴史が書かれていますか?
- A. 神代(天地開闢・天照大神など神話の時代)から第41代・持統天皇の697年(持統天皇が文武天皇に譲位した年)までが記されています。
『日本書紀』の完成は、単なる「本が出来た」という出来事ではありません。律令国家として整備を進めていた日本が、東アジアの国際秩序の中で正式な「歴史を持つ国」として名乗りを上げた瞬間でした。漢文・編年体・全30巻という重厚な形式は、国内外に「日本は文明国だ」と示すための意図的な選択でした。試験では『古事記』との違い(年・人物・文体・目的)と、六国史の第一という位置づけが頻出です。「なにを(720)記す日本書紀」で年号を確実に押さえ、記紀の対比とあわせて理解しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
舎人親王は天武天皇の皇子であり、書紀完成時の天皇は元正天皇(第44代)。
六国史の第2巻『続日本紀』(797年)は書紀と重複しない697年以降を記録する。
古事記と書紀の神話内容の相違点は受験では深追い不要だが、「両書で記述が違う」こと自体は知識として押さえておくとよい。