奈良時代の文化 ①高校/文化
712
古事記の完成
太安万侶(編纂者)・稗田阿礼(誦習者)
語呂
覚え方
七一二(712)、古事記できた
七(7)一(1)二(2)
712年(和銅5年)、太安万侶が元明天皇に献上した『古事記』は、日本に現存する最古の歴史書です。天武天皇の命を受けて稗田阿礼が暗記した神話・伝承を、太安万侶が漢字を巧みに使って書き記しました。上巻(神代)・中巻・下巻の三巻構成で、神々の誕生から推古天皇の時代までを記しています。単なる歴史の記録にとどまらず、和歌や神話を豊富に含む文学作品でもあります。
この記事のポイント
- 712年、太安万侶が元明天皇に古事記を献上(現存最古の歴史書)
- 天武天皇の命で稗田阿礼が旧辞・帝紀を誦習・暗記したのが出発点
- 太安万侶が漢字の音訓を使い分ける独自の表記法で書き記した
- 上巻(神代)・中巻・下巻の三巻構成。神々の誕生から推古朝まで収録
- 720年完成の日本書紀とは異なり、対外的ではなく国内向けの性格が強い
ここが面白い古事記は口伝を筆録した本。完成まで実は30年以上かかっていた。
古事記は突然生まれたわけではありません。7世紀後半の天武朝から元明朝にかけて、数十年にわたる準備の末に完成した国家的な文化事業です。その背景にある政治情勢を見てみましょう。
天武天皇の命令(681年ごろ)
壬申の乱(672年)で権力を掌握した天武天皇は、律令国家の整備とあわせて歴史書の編纂を命じました。当時、各豪族が独自の伝承を持っており、内容に誤りや誇張が多かったとされています。天武天皇は「帝紀(天皇の系譜)と旧辞(古い伝承)を選び定めて、後世に伝える」ことを目的に、稗田阿礼に旧辞・帝紀の誦習(暗記)を命じました。
中断と再開
天武天皇は686年に崩御し、編纂作業は長期間中断したとされています。その後、持統・文武天皇の時代を経て、710年に平城京へ遷都した元明天皇が作業の再開を命じました。稗田阿礼が暗記した内容を、太安万侶が文字として書き記す作業が本格的に始まります。
漢字だけで日本語を書く難しさ
当時の日本には独自の文字がなく、すべてを漢字で表記するしかありませんでした。太安万侶は、漢字を意味で読む(訓読み)・音で読む(音読み)を組み合わせた独特の表記法を用いました。特に和歌の部分は漢字を音として使う「万葉仮名」的な手法を取り入れており、後世の万葉集や仮名文字の発展につながる工夫でした。
大宝律令・平城京との関係
701年の大宝律令制定、710年の平城京遷都と時期を同じくして、古事記は完成します。律令によって国の制度を整え、平城京という首都を建設し、歴史書によって皇統の正当性を記録する——これらは奈良時代初期の国家建設の三本柱でした。古事記はその文化的支柱として位置づけられます。
三巻構成の歴史書
≒ 神話から歴史へのハイブリッド記録上巻は神代(イザナキ・イザナミ、アマテラスなど)、中巻は初代神武天皇〜応神天皇、下巻は仁徳天皇〜推古天皇を収録。神話と歴史を一続きに描いた。
稗田阿礼の誦習と太安万侶の筆録
≒ 口伝を記録メディアに変換する共同作業稗田阿礼が旧辞・帝紀を口伝で正確に記憶し、太安万侶がそれを漢字で書き起こす二段階の制作方法をとった。
和歌・神話・説話を豊富に収録
≒ 歴史書兼文学作品単なる年代記ではなく、神話の物語や英雄伝説、恋愛の和歌なども多く含む。古代の日本語・文化を伝える一次資料でもある。
672壬申の乱天武天皇が権力を掌握。律令国家建設と歴史整備の機運が高まる。
681編纂開始天武天皇が稗田阿礼に帝紀・旧辞の誦習(暗記)を命じる(年は推定)。
686天武崩御天武天皇崩御。古事記編纂作業が長期間中断したとされる。
701大宝律令大宝律令制定。律令国家の制度が整い始める。
710平城京遷都元明天皇が平城京へ遷都。古事記編纂の再開を命じる。
712古事記完成太安万侶が元明天皇に古事記(三巻)を献上。現存最古の歴史書となる。
◎日本の神話・皇統・古代の言語や文化を伝える現存最古の文献として、後世に多大な影響を与えた。万葉集・日本書紀とならぶ古代文化の根幹をなす。
△記述の多くは神話・伝説の領域であり、史実としての正確性には限界がある。成立事情(稗田阿礼の性別・身分・役割など)にも不明点が多い。
太安万侶
編纂者(書き記した人)朝廷の官人。元明天皇の命で稗田阿礼の誦習内容を漢字に書き記した。1979年に奈良市の茶畑で墓誌が発見され、実在が確認された。
稗田阿礼
誦習者(暗記した人)天武天皇の命で旧辞・帝紀を暗記した。性別・身分は不明な点が多く、女性説・舎人説など諸説ある。
天武天皇
編纂を命じた天皇壬申の乱で即位。律令国家建設の一環として歴史書の編纂を命じた。完成を見ずに686年に崩御。
元明天皇
古事記を受け取った天皇712年に太安万侶から古事記の献上を受けた。翌720年には日本書紀も完成している。
舎人親王
日本書紀の編纂責任者古事記の完成から8年後(720年)に日本書紀をまとめた。古事記との違いを理解するうえで重要な人物。
- 誦習
- 声に出して繰り返し読み、内容を記憶すること。稗田阿礼は文字に頼らず旧辞・帝紀を口伝で暗記した。
- 帝紀
- 歴代天皇の系譜・事績を記した記録。古事記・日本書紀の基礎資料の一つ。
- 旧辞
- 神代から伝わる古い伝承・説話の記録。各地の豪族家に伝わっていたが、内容にばらつきがあった。
- 万葉仮名
- 漢字を意味ではなく音(発音)として使い日本語を表記する方法。古事記の和歌部分や万葉集で用いられた。後の仮名文字の原型。
1太安万侶の墓は1979年まで「幻」だった
太安万侶は長らく実在を疑う研究者もいたが、1979年に奈良市の茶畑から墓誌(銅板の墓碑)が偶然発見され、実在と没年(723年)が確認された。現在は国の重要文化財に指定されている。
2稗田阿礼の性別は謎
古事記の序文には稗田阿礼の名が登場するが、性別や身分に関する明確な記述はない。男性の舎人(天皇の側近)説が有力とされる一方、女性説を支持する研究者もおり、現在も定説はない。
3古事記と日本書紀は「別の目的」で作られた
古事記は国内向けの皇統正当化が主目的とされるのに対し、日本書紀(720年)は中国の正史スタイルにならった漢文で書かれており、対外的な国家の正史として作られた。両書は姉妹書ではなく、用途が異なる。
4三巻で約100人以上の天皇・神が登場
上巻では天地開闢・アマテラス・スサノオ・オオクニヌシなどの神々、中巻では神武〜応神天皇の事績、下巻では仁徳〜推古天皇までを収録。神話と実在の人物が渾然一体となっている。
5完成まで30年以上かかった理由
天武天皇の命(681年ごろ)から元明天皇への献上(712年)まで、約30年の歳月がかかった。天武天皇の崩御(686年)による中断が大きな要因とされるが、詳細は太安万侶の序文に記されている以上のことは不明な点が多い。

ここが出る博士のワンポイント
完成年は712年(語呂:七一二、古事記できた)。8年後の720年完成の日本書紀と混同しないこと。
編纂者は太安万侶(書き記した人)、誦習者は稗田阿礼(暗記した人)——役割の区別が頻出。
古事記は現存最古の歴史書。三巻構成で上巻(神代)・中巻・下巻に分かれ、推古天皇の時代まで記している。
命じたのは天武天皇、受け取ったのは元明天皇——人物と時期のセットで覚える。
語呂クイズ
「七一二(712)、古事記できた」= 古事記の完成は西暦何年?
- Q. 古事記と日本書紀はどう違いますか?
- A. 古事記(712年)は国内向けで、漢字の音訓を混用する独自の表記法で書かれた日本最古の歴史書です。日本書紀(720年)は漢文のみで書かれた対外的な正史で、構成・目的ともに異なります。
- Q. 稗田阿礼はなぜ「誦習」したのですか?
- A. 各豪族が伝える帝紀・旧辞は内容がばらばらで正確さに欠けていたため、天武天皇は正しい内容を記憶させて固定しようとしました。文字に頼らず暗記させたのは、当時の伝承文化の特性によるものです。
- Q. 古事記はどこまでの時代を記していますか?
- A. 上巻は神代(イザナキ・イザナミ、アマテラスなどの神々)、中巻は神武天皇〜応神天皇、下巻は仁徳天皇〜推古天皇(在位593〜628年)までを記しています。
- Q. 太安万侶とはどういう人物ですか?
- A. 奈良時代初期の朝廷官人です。元明天皇の命を受け、稗田阿礼が誦習していた内容を漢字で書き記して古事記を完成させました。1979年に墓誌が発見され、その実在が確認されています。
- Q. 古事記はなぜ712年に完成したのですか?
- A. 天武天皇の命(681年ごろ)から始まった編纂作業は、天武天皇の崩御(686年)などで中断しました。710年に平城京へ遷都した元明天皇が作業再開を命じ、太安万侶がおよそ数か月で書き記し完成させたと序文に記されています。
古事記は712年、太安万侶の筆と稗田阿礼の記憶が合わさって生まれた、日本最古の歴史書です。神話から推古朝までを一続きに記したその内容は、日本の文化・信仰・言語の源流を探るうえで今なお欠かせない文献です。「七一二(712)、古事記できた」の語呂とともに、完成年・編纂者・三巻構成という基本セットをしっかり押さえましょう。8年後(720年)の日本書紀との区別も頻出ポイントです。
編集メモ(ファクト)
天武天皇の編纂命令の年は681年が通説だが、古事記序文の解釈によって異説もある。断定を避けて「681年ごろ」と表記した。
稗田阿礼の性別・身分は現在も確定していない。男性の舎人説が有力だが女性説も根強く、「諸説ある」として本文では性別断定を避けた。
古事記が「対外向けでない」点は研究者の多数見解だが、成立意図についての議論は続いており、断定的な表現は避けた。