奈良時代の仏教国家 ②中学/文化
752
東大寺大仏の開眼供養
聖武天皇(発願)・孝謙天皇(開眼供養時の天皇)・行基(勧進)・菩提僊那(開眼導師)
語呂
覚え方
大仏に、なごむ心(752)で開眼
なご(7)む(5)心(2)
752年(天平勝宝4年)、奈良・東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ)、いわゆる「奈良の大仏」の開眼供養が盛大に営まれました。発願した聖武天皇はこのとき上皇、式典は娘の孝謙天皇が主宰し、インド僧「菩提僊那(ぼだいせんな)」が開眼導師を務めました。大仏造立の詔は743年に出され、僧「行基」が全国を歩きまわって民衆から寄付を集める勧進を担いました。仏の力で国を守る「鎮護国家」の思想を体現したこの大仏は、741年の国分寺建立の詔と並んで、奈良時代を代表する国家プロジェクトの象徴です。
この記事のポイント
- 752年、東大寺の盧舎那仏(奈良の大仏)の開眼供養が行われた
- 発願は聖武天皇(743年・造立の詔)。開眼時の天皇は娘の孝謙天皇
- 開眼導師はインドから来日した僧・菩提僊那
- 行基が全国で勧進(寄付集め・土木協力)を担い、民衆の力で建立を支えた
- 「鎮護国家」の思想が背景にあり、741年の国分寺建立の詔と一体の政策
ここが面白い開眼の筆を引いたのはインド僧。「日本の大仏」の完成式典を仕切ったのは外国人だった。
奈良の大仏は、ある日突然作られたわけではありません。聖武天皇の時代に続いた社会的混乱と、仏教への深い信仰が重なって初めて生まれたプロジェクトです。背景を順を追って見てみましょう。
聖武天皇の時代の危機
8世紀前半、日本は深刻な危機に見舞われていました。729年の「長屋王の変」、737年には天然痘の大流行で多くの貴族が亡くなり、740年には九州で「藤原広嗣の乱」が起きました。聖武天皇は都さえも平城京から転々と移すほど精神的に追い詰められていたとされます。
鎮護国家の思想
当時の仏教には「仏の加護が国を守る」という「鎮護国家」の考え方が根付いていました。741年、聖武天皇は諸国に国分寺・国分尼寺を建てる詔を出し、東大寺をその総本山(総国分寺)と位置づけました。大仏建立はその延長線上にある最大の事業でした。
行基の勧進と民衆の力
743年、聖武天皇は「大仏造立の詔」を出します。この事業に大きく貢献したのが僧「行基」です。行基は道路・橋・溜め池などの社会事業で民衆に親しまれていた人物で、大仏建立への賛同と寄付(勧進)を全国に呼びかけました。朝廷は行基を最高位の「大僧正」に任命して協力を促しました。
完成まで9年の難工事
高さ約15メートルの盧舎那仏を造るには、膨大な銅・金・木材と熟練の技術が必要でした。鋳造は下から段階的に積み上げる方法(蝋型鋳造・踏み返し技法)で行われ、約9年をかけて像が完成。752年の開眼供養には東大寺で1万人規模の法要が営まれたと伝わります。
聖武天皇の発願と造立の詔(743年)
≒ 国家による超大型公共事業の宣言743年、聖武天皇が「盧舎那仏を造る」との詔を出した。材料の確保・職人の動員・費用負担はすべて国家が主導した。
行基の勧進(民衆動員)
≒ クラウドファンディング+ボランティア組織行基が全国を巡って寄付と労働力を集めた。民衆が自発的に協力したことで、朝廷だけでは成しえない規模の事業が実現した。
開眼供養(752年)
≒ 国家プロジェクトの完工式・国際的セレモニー孝謙天皇が主宰し、インド僧・菩提僊那が開眼の筆を執った。唐・新羅・インド・東南アジアからの使節も参加した国際的な大法要だった。
701大宝律令大宝律令が制定され、律令国家体制が整う。国家による仏教管理の基盤となった。
710平城京遷都奈良(平城京)に都が移る。東大寺はこの地に建てられることになる。
741国分寺の詔聖武天皇が諸国に国分寺・国分尼寺を建てる詔を出す(鎮護国家政策の一環)。
743大仏造立の詔聖武天皇が盧舎那仏の造立を命じる詔を出す。行基が勧進で全国に協力を呼びかける。
749行基死去・陸奥の金行基が死去。同年、陸奥(現在の東北)で金が発見され、大仏の金メッキに使われた。
752開眼供養東大寺で盧舎那仏の開眼供養が行われる。孝謙天皇が主宰し、菩提僊那が開眼導師を務めた。
784長岡京遷都都が長岡京に移される。奈良時代が終わり、東大寺・大仏はそのまま奈良に残された。
◎鎮護国家の象徴として完成した大仏は、その後1200年以上にわたって奈良の地に残り、現在も世界最大級の金銅仏として国宝に指定されている。
△大仏建立には莫大な国費と労働力が投入され、民衆への負担も大きかった。また造立を機に、僧「道鏡」のような宗教者が政治に深く関与する問題も後に生じた。
聖武天皇
第45代天皇(発願時の天皇)社会不安の中で仏教に深く帰依した。743年に大仏造立の詔を出したが、開眼供養(752年)時には上皇となっていた。
孝謙天皇
第46代天皇(開眼供養時の天皇)聖武天皇の娘。752年の開眼供養を主宰した。のちに称徳天皇として重祚(再即位)する。
行基
僧・大僧正道路・橋・溜め池などの社会事業で知られた民衆派の僧。大仏建立への勧進(寄付集め)を担い、「大僧正」に任じられた。
菩提僊那(ぼだいせんな)
インド出身の僧・開眼導師インドから唐を経て来日した僧。開眼供養で「眼を入れる筆」を執る開眼導師を務めた。
良弁(ろうべん)
東大寺初代別当(寺の管理者)聖武天皇の信頼を受けて東大寺の建立・運営を指揮した高僧。
- 盧舎那仏(るしゃなぶつ)
- 宇宙の真理を体現するとされる仏。「奈良の大仏」の正式名称。高さ約14.7メートル(台座含む約18メートル)の金銅仏。
- 鎮護国家
- 仏教の力で国家の安泰を守るという思想。聖武天皇の仏教政策(国分寺建立・大仏造立)の根本にある考え方。
- 勧進(かんじん)
- 寺院の建立・修繕のために、僧が民衆から寄付や労働力を集める活動。行基が大仏建立の勧進を担った。
- 開眼供養(かいげんくよう)
- 仏像の目(眼)を描き入れて魂を宿らせる儀式。これにより仏像は単なる造形物から礼拝の対象となる。
- 国分寺・国分尼寺
- 741年の詔により全国各地に建てられた官立の寺院。国ごとに設置され、東大寺はその総本山とされた。
1開眼の筆を引いたのはインド人だった
開眼供養の最重要儀式「開眼」(仏像の眼を描いて魂を宿らせる)を担った菩提僊那は、南インド出身の僧。唐の玄宗皇帝のもとで活動した後、来日した。日本最大の仏教儀式をインドから来た僧が執り行ったことは、当時の日本の国際性を示している。
2大仏は元々ピカピカの金色だった
現在の大仏は銅の色をしているが、完成当初は表面に金が塗られた金色の像だった。金メッキには大量の金が必要で、749年に陸奥(現在の東北地方)で金が発見されたことが、完成を後押しした。聖武天皇は「黄金が出た」と大喜びしたという記録が残っている。
3法要には1万人以上が参加した
開眼供養の当日は、僧侶・官人・外国使節など1万人規模が東大寺に集まったと伝わる。唐・新羅・インド・東南アジアからの来賓も参列し、音楽・舞楽が奉納された国際的な大イベントだった。
4行基はもともと「危険人物」とされていた
行基は民衆に直接布教したため、当初は朝廷から「許可なく民を集める」として弾圧された。しかし大仏建立の際には一転して朝廷が協力を要請。行基は最高位の「大僧正」に任じられた。行基は743年に任命を受けたが、749年に亡くなり、開眼供養(752年)には立ち会えなかった。
5現在の大仏は江戸時代の修復版
奈良の大仏は度重なる戦乱(平重衡の南都焼討・松永久秀の戦火など)や地震で何度も損傷した。現在の頭部は江戸時代(1692年)に再鋳造されたもの。胴体の一部のみ奈良時代の原作が残っている。

ここが出る博士のワンポイント
開眼供養は752年。語呂は「なごむ心(752)で開眼」。発願した聖武天皇と、式典時の孝謙天皇を区別すること。
大仏造立の詔は743年(墾田永年私財法と同年)。国分寺建立の詔は741年。年号の順番(741→743→752)を整理する。
行基は「勧進」で民衆の協力を集めた僧。のちに大僧正に任じられたが、開眼供養の前(749年)に亡くなっている。
開眼導師は菩提僊那(インド僧)。「日本の大仏の開眼をインド人が行った」という事実は論述でも書きやすいポイント。
鎮護国家=仏の力で国を守る思想。これが国分寺建立・大仏造立という一連の政策の根幹にある。
語呂クイズ
「大仏に、なごむ心(752)で開眼」= 東大寺大仏の開眼供養は西暦何年?
- Q. 奈良の大仏を建てたのは誰ですか?
- A. 発願(建てることを決めた)のは聖武天皇です。実際の建立には行基が民衆の勧進(寄付集め)を担い、多くの職人や民衆が関わりました。
- Q. 大仏の開眼供養はいつ行われましたか?
- A. 752年(天平勝宝4年)に行われました。このとき天皇は聖武天皇の娘・孝謙天皇で、聖武天皇はすでに上皇でした。
- Q. 行基はどんな人物ですか?
- A. 奈良時代の僧で、橋・道路・溜め池など社会事業を行いながら民衆に仏教を広めた人物です。大仏建立の際に勧進(寄付・協力集め)を担い、最高位の大僧正に任じられました。
- Q. 鎮護国家とは何ですか?
- A. 仏教の力で国家の安泰を守るという思想です。聖武天皇はこの考えに基づき、国分寺建立(741年)や大仏造立(743年の詔)を行いました。
- Q. 国分寺建立の詔と大仏造立の詔の違いは何ですか?
- A. 国分寺建立の詔(741年)は全国の各地に国分寺・国分尼寺を建てる命令です。大仏造立の詔(743年)は奈良の東大寺に盧舎那仏(大仏)を造ることを命じたものです。どちらも鎮護国家の思想に基づきます。
奈良の大仏は「聖武天皇が一人で作った」のではなく、741年の国分寺建立の詔・743年の造立の詔・行基による民衆動員・菩提僊那による開眼儀式と、多くの人と時間が積み重なった国家プロジェクトの結晶です。受験で問われやすいのは「752年・開眼供養」という年号だけでなく、聖武天皇と孝謙天皇の区別、行基の役割(勧進・大僧正)、菩提僊那がインド僧であること、鎮護国家という思想の背景です。「なごむ心(752)で開眼」の語呂とともに、一連の流れを整理しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
開眼供養(752年)時の天皇は孝謙天皇。発願した聖武天皇はこのとき上皇であり、式典には参列したとされる。
行基は749年に死去しており、752年の開眼供養には立ち会っていない(勧進は主に743〜749年ごろ)。
現在の大仏の頭部は江戸時代(1692年)の修復品。奈良時代の原作が残るのは胴体の一部のみ。