明治維新の総仕上げ ②中学/政治
1871
廃藩置県
明治政府(太政大臣・三条実美、実質的推進者・大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛)
語呂
覚え方
人は無い(1871)廃藩置県
人(1)は(8)な(7)い(1)
1871年(明治4年)7月、明治政府はそれまでの藩をすべて廃止し、府・県に置き換えました。これが廃藩置県です。旧藩主(知藩事)は一斉に罷免され、中央政府から府知事・県令が派遣されました。2年前の版籍奉還(1869年)で藩主は土地と人民を天皇に返していたものの、実態は旧藩主がそのまま知藩事として統治を続けていました。廃藩置県はその名残を一掃し、藩に代わって中央直轄の府・県を全国に敷いた改革です。中央集権国家・近代日本の骨格がここで確立しました。
この記事のポイント
- 1871年7月、全国の藩(約300)を廃止し、府・県に統一(廃藩置県)
- 旧藩主(知藩事)を罷免し、中央政府が府知事・県令を派遣して直接統治
- 版籍奉還(1869年)が形式的な返還にとどまったのに対し、廃藩置県で実質的な中央集権を実現
- 薩摩・長州・土佐の御親兵(近衛兵)が軍事的な裏付けとなり、諸藩の抵抗を抑えた
- 明治維新の「総仕上げ」として中央集権国家の基盤を確立した
ここが面白い「藩」は一夜にして消えた。知藩事たちが驚いたのは、命令が突然すぎて反論する間もなかったから。
廃藩置県は突然起きたように見えますが、その前には明治政府が中央集権を目指す段階的な布石がありました。版籍奉還からの2年間でどんな課題が残されていたのかを追うと、廃藩置県がなぜ必要だったかが見えてきます。
江戸時代の藩とは
江戸時代、全国は約300の藩(大名領)に分かれ、各藩主が独自に行政・財政・軍事を担っていました。幕府は将軍を頂点に置きながらも、各藩の内政には基本的に干渉しない分権的な体制でした。税収も兵力も藩ごとにバラバラで、統一国家としての機能は限られていました。
版籍奉還(1869年)の限界
明治新政府はまず1869年に版籍奉還を実施し、全国の藩主に土地(版)と人民(籍)を天皇に返上させました。しかし返上後も旧藩主はそのまま「知藩事」という役職に任命され、実質的に同じ地域を支配し続けました。行政・財政はほとんど従来通りで、中央集権の実現には程遠い状態でした。
御親兵の創設が転換点に
1871年初頭、薩摩・長州・土佐の三藩が天皇直属の軍隊「御親兵」を提供しました。これにより政府は軍事的な裏付けを得ることができました。同年7月、大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛らが中心となり、知藩事たちを東京に集めて廃藩置県の詔を一斉に発しました。事前に情報を絞り込んで知藩事の反発を封じたこの手法は、当時「電撃的」と評されました。
府・県への再編
廃藩置県直後、全国は3府302県(のち大幅統合)に再編されました。明治政府は府知事・県令を中央から派遣して直接統治を行い、旧藩の行政・財政・軍事権をすべて国が吸収しました。これにより全国一律の税制(地租改正への道)や徴兵制の施行が初めて可能になりました。
知藩事の一斉罷免
≒ 地方首長を中央政府が総入れ替え旧藩主から引き続き任命されていた知藩事を全員解任。中央政府が選んだ府知事・県令が代わりに派遣された。
約300藩の廃止と府・県への統合
≒ 地方自治体の全国一律再編廃藩直後に3府302県が設置され、その後数回の統合を経て3府72県に整理された。
旧藩の財政・軍事権を国へ移管
≒ 財源と兵力の中央集約藩債・藩札は政府が引き受け、藩の軍隊は解散。地租改正(1873年)・徴兵令(1873年)への布石となった。
1869版籍奉還藩主が土地と人民を天皇に返上。ただし旧藩主は知藩事として統治を継続。
1871御親兵創設薩摩・長州・土佐が天皇直属の軍隊を提供。廃藩置県の軍事的裏付けとなる。
1871廃藩置県7月14日、知藩事を一斉罷免し藩を廃止。3府302県を設置、中央政府が直轄統治。
1873地租改正・徴兵令廃藩置県で中央集権が確立したことで、全国一律の税制改革と徴兵制が実施可能に。
1877西南戦争旧薩摩藩士らが中心となった士族の反乱。廃藩置県で武士の特権が失われた不満が背景。
1889帝国憲法発布廃藩置県で確立した中央集権を基盤に、大日本帝国憲法が発布される。
◎全国統一の行政・財政・軍事体制が確立し、近代国家としての日本の基盤が整った。地租改正・徴兵令・義務教育など、その後の明治の諸改革が一気に実施可能になった。
△俸禄を失った旧武士(士族)の不満が蓄積し、1877年の西南戦争など士族反乱の遠因となった。旧藩主は東京移住を余儀なくされ、地域の有力者層の反発も生まれた。
大久保利通
参議(のち内務卿)廃藩置県の中心的推進者。薩摩藩出身。中央集権的な「富国強兵」政策を主導した。
木戸孝允
参議長州藩出身。版籍奉還・廃藩置県を一貫して推進した理論的支柱。
西郷隆盛
参議(薩摩藩御親兵の取りまとめ役)廃藩置県には軍事的に協力したが、その後は士族層への配慮から政府と対立し征韓論争で下野。
三条実美
太政大臣廃藩置県の詔を発した最高権力者(太政官制度のトップ)。
明治天皇
第122代天皇廃藩置県の詔を発布。版籍奉還と合わせ天皇中心の中央集権体制を名実ともに確立した。
- 藩
- 江戸時代の大名の領地とその統治組織。廃藩置県によって行政単位としては消滅した。
- 版籍奉還
- 1869年、藩主が土地(版)と人民(籍)を天皇に返した改革。ただし旧藩主が知藩事として統治を続けたため中央集権は不完全だった。
- 知藩事
- 版籍奉還後に旧藩主が就任した役職。廃藩置県で一斉に罷免された。
- 府知事・県令
- 廃藩置県後、中央政府が各府・県に派遣した長官。知藩事と異なり地元との利害関係がない中央の官僚。
- 御親兵
- 1871年に薩摩・長州・土佐から天皇に提供された直属の軍隊。廃藩置県実施の軍事的な裏付けとなった。
- 太政官
- 明治初期の最高行政機関。太政大臣・左大臣・右大臣・参議らで構成され廃藩置県を決定・実施した。
1「藩」という字は公式には使われていなかった
江戸時代、幕府の公式文書に「藩」という表記はほとんど使われていなかった。「藩」が一般的に使われるようになったのは幕末以降で、廃藩置県でその語が公式に定着した、という皮肉がある。
2知藩事たちは詔を聞いて初めて知った
廃藩置県は極秘裏に準備され、知藩事たちは全員を東京に集めた上で詔を発布する当日まで内容を知らされなかった。反乱の芽を摘む「電撃作戦」だった。
3旧藩主は東京移住が義務付けられた
廃藩置県後、旧知藩事(旧藩主)は原則として東京に移住させられた。地元との影響関係を断ち切り、中央政府の管理下に置くためだった。
4旧藩の借金も国が肩代わりした
廃藩置県では旧藩の藩債(借金)と藩札(紙幣)も国が引き受けた。これが明治政府の財政を一時的に圧迫したが、その後の地租改正で財源を確保した。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1871年。語呂は「人は無い(1871)廃藩置県」(藩がなくなる=人〈藩〉は無い)。
版籍奉還(1869年)との違いを押さえる。版籍奉還は形式的な返上で旧藩主が知藩事として存続したのに対し、廃藩置県は知藩事を罷免して中央から府知事・県令を派遣した。
廃藩置県の軍事的裏付けとなったのが薩摩・長州・土佐による御親兵(1871年)。
廃藩置県後に地租改正(1873年)・徴兵令(1873年)など近代化政策が連続して実施された点を関連付けて覚える。
西南戦争(1877年)は廃藩置県で特権を失った士族層の不満が遠因。
語呂クイズ
「人は無い(1871)廃藩置県」= 廃藩置県は西暦何年?
- Q. 廃藩置県はいつ、なぜ行われたのですか?
- A. 1871年(明治4年)7月です。版籍奉還で旧藩主が知藩事として統治を続ける状態が残り、真の中央集権が実現していなかったため、知藩事を罷免して中央政府が直接統治するために行われました。
- Q. 版籍奉還と廃藩置県は何が違うのですか?
- A. 版籍奉還(1869年)は藩主が土地・人民を天皇に返した改革ですが、旧藩主はそのまま知藩事に任命され実質的な支配が続きました。廃藩置県(1871年)は知藩事を一斉罷免して藩そのものを廃止し、府・県として中央政府の直轄下に置いた改革です。
- Q. 廃藩置県はどのように実施されたのですか?
- A. 大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛らが極秘に計画し、知藩事全員を東京に集めた上で詔を発布しました。薩摩・長州・土佐の御親兵が軍事的な裏付けとなり、知藩事の反発を封じました。
- Q. 廃藩置県で武士はどうなりましたか?
- A. 藩が消滅したことで武士(士族)は俸禄の基盤を失いました。秩禄処分(家禄の廃止)や廃刀令が続いて特権が失われ、士族の不満が西南戦争(1877年)などの反乱につながりました。
- Q. 廃藩置県後、全国はいくつの府・県になりましたか?
- A. 廃藩直後は3府302県でしたが、その後の統廃合で3府72県に整理されました(さらに後に現在の都道府県制に至ります)。
廃藩置県は、明治維新の「総仕上げ」と呼ばれる改革です。版籍奉還で名目上は解消されていた藩の支配を、今度は実質的にも取り除き、中央政府が全国を直接統治できる体制を確立しました。この一手があったからこそ、翌年以降の地租改正・徴兵令・学制など近代化改革が一気に進みました。「人は無い(1871)廃藩置県」の語呂とともに、版籍奉還(1869年)との2段階の流れで理解しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
廃藩置県の実施日は明治4年7月14日(旧暦)。西暦換算は1871年8月29日だが、年号としては「1871年」で定着している。
版籍奉還後の知藩事廃止の経緯については、旧藩主が積極的に返上したとも半強制的だったとも評価が分かれるため、断定を避けた表現にしている。
御親兵の役割については「軍事的裏付け」と説明したが、実際に武力行使は行われておらず、抑止力として機能したという点に留意。
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