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内閣制度の創設(初代総理・伊藤博文)の浮世絵イラスト
明治の国家建設 ③高校/政治
1885

内閣制度の創設(初代総理・伊藤博文)

伊藤博文(初代内閣総理大臣)
語呂
覚え方
嫌箱できた、伊藤博文の内閣
い(1)や(8)は(8)こ(5)

1885年(明治18年)12月、明治政府はそれまでの太政官制を廃止し、内閣制度を創設しました。各省の長官(大臣)が内閣を構成し、内閣総理大臣がその首班として行政を統轄する近代的な仕組みです。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しました。この改革は1889年の大日本帝国憲法発布・翌1890年の国会開設(帝国議会)に向けた重要な準備段階であり、宮中(天皇の家政機関)と府中(行政府)を分離して行政の合理化を図る狙いもありました。

この記事のポイント

  • 1885年(明治18年)12月、太政官制を廃止して内閣制度を創設
  • 初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任し、各省大臣が内閣を構成
  • 伊藤は渡欧してドイツ(プロイセン)流の立憲主義・行政制度を学んでいた
  • 1889年の大日本帝国憲法発布・1890年の帝国議会開設に向けた準備
  • 宮中と府中(行政)の分離を明確にし、近代的な行政組織の基盤を整えた
ここが面白い

初代内閣総理大臣・伊藤博文は、就任前にヨーロッパへ渡ってドイツ(プロイセン)流の憲法理論を学んでいた。

ここに至るまでの流れ
背景

内閣制度の創設は突然の出来事ではありません。明治維新後、政府は急速な近代化を進めながら、どのような統治の仕組みを作るかをめぐって試行錯誤を繰り返してきました。内閣制度誕生の背景を順に見ていきましょう。

太政官制の限界

明治政府が当初採用した太政官制は、太政大臣・左大臣・右大臣・参議などが合議する仕組みで、権限の所在があいまいでした。急速な近代化を進めるうえで、各省が明確な責任をもって行政を執行できる制度が求められるようになりました。

自由民権運動と国会開設の約束

1874年(明治7年)に板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出して以来、自由民権運動が高まりました。政府は1881年(明治14年)の政変で大隈重信を追放するとともに、1890年に国会を開くことを約束する「国会開設の勅諭」を出しました。この約束を果たすには、議会制度と整合する行政の枠組みが必要でした。

伊藤博文の渡欧と憲法調査

1882年(明治15年)、伊藤博文はヨーロッパに渡り、ドイツ(プロイセン)の憲法学者グナイストやシュタインらから立憲主義と行政制度を学びました。イギリス流の議院内閣制ではなく、天皇の大権を強く位置づけたドイツ流の欽定憲法路線を採用する方針を固めて帰国します。

華族令と制度整備

1884年(明治17年)には華族令が制定され、旧公家・旧大名に加えて維新の功労者も加えた近代的な貴族制度が整えられました。これは翌年の内閣制度創設、さらにその後の貴族院設置への伏線でもありました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

太政官制の廃止と内閣制度の発足

≒ 縦割りの合議体を、首相を頂点とする行政組織へ刷新

1885年12月22日、太政官制が廃止され、内閣総理大臣を首班とする内閣制度が発足。各省大臣が個別に行政責任を担う体制になった。

初代内閣総理大臣・伊藤博文の就任

≒ 渡欧で学んだ立憲主義の知識を制度設計に活かす

伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。以後、第5・7・10代にも就任し、明治期の政治を主導した。

宮中と府中の分離

≒ 天皇の家政機関と行政府を切り離して行政の合理化を図る

宮内省を内閣の外に置き、天皇の私的事務と行政府の事務を明確に区別。立憲君主制に向けた制度整備の一環だった。

前後のできごと
年表
1874
民権運動板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出。自由民権運動が始まる。
1881
国会開設の勅諭政府が1890年に国会を開くことを約束(国会開設の勅諭)。大隈重信を追放(明治14年の政変)。
1882
伊藤渡欧伊藤博文がドイツ(プロイセン)などでグナイスト・シュタインらから憲法理論を学ぶ。
1884
華族令華族令制定。功労者を含む近代的な貴族制度を整備。貴族院設置の準備。
1885
内閣制度創設太政官制を廃止し内閣制度を創設。伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任(12月22日)。
1888
枢密院設置憲法草案を審議するために枢密院を設置。伊藤が初代枢密院議長に就任し草案を審議。
1889
帝国憲法発布大日本帝国憲法を発布(2月11日)。天皇が国民に与える欽定憲法の形式をとった。
1890
帝国議会開設第一回帝国議会が開会。衆議院(選挙)と貴族院(皇族・華族等)の二院制。
結果とその後
結果
近代的な行政組織の基盤が整い、1889年の大日本帝国憲法発布・1890年の帝国議会開設へとつながった。
内閣は天皇に対して責任を負う形であり、議会に対する責任(議院内閣制)は明確ではなかった。各大臣が個別に天皇に責任を負う「超然主義」が後の政党との対立を生んだ。
登場人物
人物

伊藤博文

初代内閣総理大臣

長州藩出身。渡欧で立憲主義を学び、内閣制度・大日本帝国憲法の制定を主導。第5・7・10代総理も務めた。

井上馨

初代外務大臣

長州藩出身の外交官。伊藤第一次内閣を支えた。

山縣有朋

初代内務大臣

長州藩出身。軍・警察・地方行政を掌握し、後に陸軍・政界に大きな影響力を持った。

松方正義

初代蔵相(大蔵大臣)

薩摩藩出身の財政家。デフレ政策(松方デフレ)で財政を立て直し、日本銀行の設立を推進した。

グナイスト・シュタイン

伊藤が師事したドイツの憲法学者

ルドルフ・フォン・グナイスト(行政法)とローレンツ・フォン・シュタイン(国家学)から立憲主義を学んだ。

キーワード解説
用語
太政官制
明治政府が維新直後に採用した最高行政機関の制度。太政大臣・左右大臣・参議などによる合議体で、1885年の内閣制度創設により廃止された。
内閣総理大臣
内閣の首班。各省大臣を統轄して行政の最高責任者となる地位。1885年の制度発足以来今日まで続く日本の行政トップの職名。
欽定憲法
君主が制定して国民に与える形式の憲法。大日本帝国憲法はこの形式をとり、国民の代表が制定する「民定憲法」とは異なる。
宮中・府中の別
天皇の家政機関(宮中)と行政府(府中)を制度上区別すること。内閣制度創設により宮内省が内閣の外に置かれ、行政の合理化が図られた。
枢密院
1888年に設置された天皇の最高諮問機関。憲法草案の審議を行い、後に条約・勅令なども審議した。
もっと知りたい
豆知識

1「嫌箱(1885)」の語呂解説

「い(1)や(8)は(8)こ(5)=1885」。「嫌(いや)=18」、「箱(はこ)=85」と分割しても成立する。内閣という「箱(組織)」が1885年に「できた」という意味も込められており、出来事の内容とも一致する覚えやすい語呂。

2第一次伊藤内閣の顔ぶれは「薩長」ばかり?

初代内閣は総理の伊藤(長州)をはじめ、井上馨(長州)・山縣有朋(長州)・松方正義(薩摩)など、明治維新を主導した薩長出身者が多数を占めた。藩閥政府への批判はこの後も続き、政党政治との対立の火種となった。

3伊藤はドイツ流を選んだ理由

イギリスは議会が強く内閣が議会に責任を負う議院内閣制。ドイツ(プロイセン)は君主の大権が強く、内閣は議会ではなく君主に責任を負う。天皇中心の体制を構築したかった明治政府には後者が都合よく、伊藤はグナイスト・シュタインの薦めもあってドイツ流を採用した。

4内閣制度と同日に公布された内閣職権

1885年12月22日の内閣制度創設と同日、内閣の権限を定めた「内閣職権」が公布された。内閣職権では内閣総理大臣に各省を統督する強い権限が与えられた(大宰相主義)。のちの1889年の内閣官制ではこの権限が弱められ、総理大臣は「同輩中の首席」に近い地位となり、各大臣の独立性が強まった。

5伊藤博文は総理を4回務めた

伊藤は第1・5・7・10代の内閣総理大臣を務め、明治期の政治を主導した。1909年にハルビンで韓国民族運動家・安重根に暗殺されるまで日本の政治の中心にいた。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
1885年(明治18年)に太政官制を廃止し内閣制度を創設。語呂は「嫌箱(1885)できた、伊藤博文の内閣」。
初代内閣総理大臣は伊藤博文。伊藤が渡欧してドイツ(プロイセン)流の憲法理論を学んだ点も頻出。
内閣制度創設→1888年枢密院設置→1889年大日本帝国憲法発布→1890年帝国議会開設、という流れを押さえること。
「宮中と府中の分離」は用語として問われることがある。宮内省が内閣の外に置かれた点が重要。
華族令(1884)→内閣制度(1885)→帝国憲法(1889)の年号セットは混同しやすいので注意。
語呂クイズ
「嫌箱できた、伊藤博文の内閣」= 内閣制度の創設(初代総理・伊藤博文)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 内閣制度はなぜ1885年に作られたのですか?
A. 1881年の国会開設の勅諭で1890年までに議会を開くと約束したため、憲法制定・議会開設に向けた近代的な行政組織の整備が急務でした。また太政官制では権限の所在があいまいで、急速な近代化に対応しきれなかったことも理由です。
Q. 伊藤博文はなぜドイツ(プロイセン)の制度を参考にしたのですか?
A. イギリス流の議院内閣制は議会が強く君主の権限が弱い制度です。天皇の大権を強く位置づけたい明治政府の方針には、君主権が強いドイツ(プロイセン)流の立憲主義の方が合致していました。
Q. 太政官制と内閣制度は何が違うのですか?
A. 太政官制は太政大臣・左右大臣・参議らによる合議体で権限の所在があいまいでした。内閣制度では内閣総理大臣が首班となり、各省大臣が明確な行政責任を担う体制になりました。
Q. 内閣制度と大日本帝国憲法はどちらが先ですか?
A. 内閣制度(1885年)が先です。その後1888年に憲法草案審議のための枢密院が設置され、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。
Q. 「宮中と府中の分離」とは何ですか?
A. 天皇の家政機関(宮中・宮内省)と行政府(府中・内閣)を制度的に切り離すことです。内閣制度創設により宮内省が内閣の外に置かれ、行政の合理化が図られました。
まとめ

内閣制度の創設は、明治政府が「西洋列強と対等な近代国家」を目指して進めた制度整備の要です。太政官制という古い枠組みを脱し、内閣総理大臣を頂点とする近代的な行政組織を打ち立てたことで、1889年の大日本帝国憲法発布・1890年の帝国議会開設という流れが整いました。「嫌箱(1885)できた、伊藤博文の内閣」の語呂とともに、明治の国家建設の流れのなかに位置づけて押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
内閣制度の創設日は1885年12月22日(明治18年12月22日)。
枢密院の設置は翌々年の1888年(明治21年)。帝国憲法草案の審議のために設けられた。
初代内閣の構成は伊藤博文(総理)・井上馨(外務)・山縣有朋(内務)・松方正義(大蔵)・大山巌(陸軍)・西郷従道(海軍)・森有礼(文部)・谷干城(農商務)・榎本武揚(逓信)。