
大隈重信
おおくま・しげのぶ 1838–1922 / 明治〜大正・政治家
早稲田を創った二度の首相基本データ
- よみ
- おおくま・しげのぶ
- 生没年
- 1838–1922
- 別名・号
- 早稲田大学の創立者
- 出身(藩)
- 肥前佐賀藩(現在の佐賀県)
- おもな地位・役職
- 大蔵卿、外務大臣、内閣総理大臣(二度)
- 所属(藩閥・政党)
- 肥前藩士、立憲改進党を結成
- 教育での事績
- 東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立
どんな人?
大隈重信(おおくま・しげのぶ)は、明治から大正にかけて二度首相を務め、早稲田大学を創設した政治家です。明治初期には大蔵卿として1873年の地租改正の財政面を担当しました。
その後、政府を離れて立憲改進党を創設し、1890年の第一回帝国議会では民党の一方の柱として政府と対峙します。板垣退助や伊藤博文らと並ぶ明治政界の重鎮でした。
第一次世界大戦が始まった1914年には第二次内閣を組織し、対ドイツ宣戦布告を決定。翌1915年には二十一か条の要求を許可しました。70代半ばで再登板した「老宰相」として、政治と教育の両面に足跡を残しています。
おもな業績・つくったもの
- 立憲改進党を結成(1882年)1882年、イギリス流の議会政治を理想とする立憲改進党を結成。板垣退助の自由党と並ぶ民権派政党を率いた。
- 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設(1882年)1882年、学問の独立をかかげて東京専門学校を創設。のちの早稲田大学として近代日本の私学教育を担った。
- 大蔵卿として明治財政を担う明治政府の大蔵卿などを務め、財政・貨幣制度の整備にあたり、近代国家の財政基盤づくりを担った。
- 二度にわたり内閣総理大臣を務める内閣総理大臣を二度務めた。第二次内閣期の1915年には中国への二十一か条の要求が行われた。
生涯のあゆみ(年表)
- 1838肥前佐賀藩士の家に生まれる。
- 1873大蔵卿として明治初期の財政運営を担う。解説を見る →
- 1882立憲改進党を結成し、東京専門学校を創立する。
- 1888外務大臣として条約改正の交渉にあたる。
- 1889条約改正交渉をめぐり爆弾に襲われ、右脚を失ったと伝えられる。
- 1898板垣退助と組み、日本初の政党内閣とされる内閣を組織する。
- 1914第一次世界大戦の開戦時、内閣総理大臣を務める。解説を見る →
- 1915二十一か条の要求を中国に突きつける。解説を見る →
- 1922死去。
ゆかりの地
早稲田大学東京都大隈が創立した東京専門学校を前身とする大学。
豆知識
早稲田大学を創った政治家
大隈は1882年に東京専門学校(後の早稲田大学)を設立した。政治家であると同時に、在野の人材育成にも力を注いだ教育者でもあった。
爆弾で右脚を失う
1889年、条約改正案への反発から爆弾を投げつけられ、大隈は右脚を失った。それでも政界に復帰し、後に内閣総理大臣を二度務めた。
「人生125歳説」を唱えた
大隈重信は、人は本来125歳まで生きられるという独自の長寿論を唱えたと伝えられる。晩年まで活動的で、演説の名手としても知られた。
人物相関
よくある質問
大隈重信は何をした人?
肥前佐賀藩出身の政治家で、大蔵卿として明治初期の財政を担い、立憲改進党を結成しました。二度にわたり内閣総理大臣を務め、また東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立した教育者としても知られます。
大隈重信と早稲田大学の関係は?
大隈重信は1882年に東京専門学校を創立しました。これがのちの早稲田大学の前身にあたり、大隈は在野の人材育成に力を注いだ人物として知られています。
二十一か条の要求とは何ですか?
1915年、大隈重信内閣のもとで日本が中国(中華民国)に突きつけた要求です。中国における日本の権益拡大を求める内容で、中国側の反発を招いた出来事として知られます。