戦後外交の転換 ③高校/外交
1978
日中平和友好条約
福田赳夫(内閣総理大臣)・鄧小平(中国国務院副総理)
語呂
覚え方
行くなや(1978)仲直り、日中平和友好条約
行(1)く(9)な(7)や(8)仲直り、日中平和友好条約
1978年(昭和53年)、福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約が締結されました。1972年の日中共同声明で国交正常化を果たした日中両国が、その関係を条約という形で正式に確認・発展させたものです。条約には「覇権反対」を盛り込んだ「覇権条項」が含まれ、ソ連が強く反発しました。調印後には中国の鄧小平が来日し、翌年からの改革開放路線に向けて日本の経済・技術との連携を模索。日中両国の経済交流が急速に深まる契機となった条約です。
この記事のポイント
- 1978年、福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約を締結
- 1972年の日中共同声明による国交正常化を条約の形で正式に確認・発展
- 「覇権条項」(特定の国の覇権に反対)をめぐり、ソ連が強く反発
- 調印後に鄧小平が来日し、日中経済交流深化の契機となった
- 中国の改革開放路線と結びつき、その後の日中経済関係の基盤を形成
ここが面白い「覇権反対」をめぐりソ連が猛反発。鄧小平来日が、その後の中国の大変貌を予感させた。
日中平和友好条約が結ばれるまでには、戦後30年以上の歳月と、複数の歴史的転換点がありました。日本と中国(中華人民共和国)の間には長らく正式な外交関係がなく、国交正常化そのものが大きな課題でした。その流れを振り返りましょう。
戦後の日中断絶
1945年の敗戦後、日本はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約(1951年)で独立を回復しましたが、中華人民共和国とは国交を結ばず、台湾の中華民国との平和条約を締結しました。冷戦構造のなか、日本は西側陣営に属していたため、中国(大陸)との外交関係は長期にわたって断絶した状態が続きました。
米中接近が変えた国際情勢
転機は1971〜72年のニクソン米大統領の訪中でした。アメリカが中国との関係改善に動いたことで、日本も中国との国交正常化を急ぐ必要が生じました。1972年、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明に署名。戦争状態の終結と国交正常化を宣言しました。しかしこれは「共同声明」であり、法的拘束力のある条約ではありませんでした。
条約交渉と「覇権条項」問題
国交正常化後も条約締結交渉は難航しました。最大の争点が「覇権条項」です。中国側は「いかなる国も覇権を求めるべきでない」という文言を強く求めました。これは事実上ソ連を念頭に置いたものと見られ、ソ連は日本に強い圧力をかけて条項の削除を求めました。福田内閣は粘り強い交渉の末、第三国への適用をしない旨の「第三国条項」を付け加えることでソ連に配慮しつつ、覇権条項を維持した形で合意に達しました。
日中共同声明の条約化
≒ 口約束を正式な契約書にアップグレード1972年の国交正常化宣言を法的拘束力のある条約として確認。平和友好関係の法的基盤を確立した。
覇権条項の明記
≒ 「誰かが一人勝ちしようとすることには反対」と明示「アジア太平洋地域においても世界においても、覇権を求めるべきでない」という条文を盛り込んだ。ソ連を意識した内容でソ連が強く反発した。
鄧小平来日と経済交流の開始
≒ 改革開放前夜のトップが日本を視察条約調印後の1978年10月、鄧小平が来日。日本の新幹線や工場を視察し、改革開放に向けた経済・技術交流の礎を築いた。
1972国交正常化田中角栄首相が訪中し、日中共同声明に署名。戦争状態の終結と国交正常化を宣言。
1973条約交渉開始日中平和友好条約の交渉が始まるが、覇権条項をめぐる対立で難航。
1978条約締結8月12日、北京で日中平和友好条約に調印。福田赳夫内閣のもとで締結。
1978鄧小平来日10月、鄧小平副総理が来日。新幹線や工場を視察し、日中経済交流の本格化を予告した。
1979改革開放中国が改革開放路線を本格化。日本からの経済協力・技術導入が急増していく。
1980ODA開始日本から中国への政府開発援助(ODA)が開始。日中経済関係の制度的枠組みが整う。
◎日中の平和友好関係が法的に確立し、その後の経済・文化交流の基盤となった。鄧小平の来日は改革開放路線を加速させ、日本企業の中国進出の先駆けともなった。
△覇権条項をめぐりソ連との関係が悪化し、日ソ関係に影響を与えた。また条約が日中友好の象徴となる一方、領土問題(尖閣諸島など)は棚上げにされ、後年の外交課題として残ることになった。
福田赳夫
内閣総理大臣条約締結を主導。覇権条項の維持とソ連への配慮を両立させる外交を展開した。
鄧小平
中国国務院副総理条約調印後に来日し、日本の高度経済成長の成果を視察。翌年から改革開放路線を本格化させた。
園田直
外務大臣北京で条約に調印した。粘り強い交渉で覇権条項をめぐる折衝をまとめた。
田中角栄
元内閣総理大臣(1972年当時)1972年の日中共同声明の立役者。日中平和友好条約はその延長線上に位置する。
- 覇権条項
- 「いかなる国も覇権を求めるべきでない」と定めた条文。実質的にソ連を念頭に置いた内容とみなされ、ソ連が日本への圧力を強める要因となった。
- 日中共同声明
- 1972年に田中角栄首相と周恩来首相が署名した文書。日中の戦争状態終結と国交正常化を宣言したが、条約ではなく声明だった。
- 改革開放
- 1978年末から鄧小平が主導した中国の経済政策の大転換。市場経済の導入と対外開放を進め、中国の高度経済成長の礎を築いた。
- 第三国条項
- 「この条約はいかなる第三国とも関係しない」とした付帯条項。ソ連を刺激しないための配慮として盛り込まれた。
1鄧小平が乗った新幹線
来日した鄧小平は東海道新幹線に乗車し、「飛んでいるようだ」と感想を述べたと伝えられる。この体験が中国での高速鉄道整備への関心を高めたとも言われており、数十年後の中国高速鉄道網の原点の一つとして語られることがある。
2条約交渉に6年かかった理由
1972年の国交正常化から条約締結まで実に6年を要した。最大の壁が覇権条項で、ソ連との関係を気にする日本側が難色を示し続けたためだ。福田内閣が第三国条項を付け加えることで打開したが、ソ連は批判を続けた。
3調印は北京、発効は約2か月後
条約は1978年8月12日に北京で調印され、1978年10月23日に効力を発生した(批准書交換)。発効の日に東京で行われた批准書交換式に鄧小平が出席し、来日の機会となった。
4日本語で「友好」を語った鄧小平
来日した鄧小平は各地で歓迎を受け、「中日友好」を強調した。彼の訪日は中国指導者として初の日本訪問であり、その後の日中関係の「蜜月時代」を象徴するシーンとなった。

ここが出る博士のワンポイント
条約締結は1978年、首相は福田赳夫(田中角栄は1972年の日中共同声明の人)。
「日中共同声明(1972年)」と「日中平和友好条約(1978年)」はセットで覚える。前者は声明、後者は条約。
覇権条項に反発したのはソ連。なぜかを説明できるようにしておく。
鄧小平の来日は1978年の条約発効後。改革開放路線との関連で問われることが多い。
語呂クイズ
「行くなや(1978)仲直り、日中平和友好条約」= 日中平和友好条約は西暦何年?
- Q. 日中平和友好条約を結んだ日本の首相は誰ですか?
- A. 福田赳夫首相です。1972年に日中国交正常化を実現した田中角栄と混同しやすいので注意が必要です。
- Q. 日中共同声明と日中平和友好条約の違いは何ですか?
- A. 日中共同声明(1972年)は国交正常化を宣言した政治文書で、法的拘束力はありません。日中平和友好条約(1978年)はその内容を条約として正式に確認し、法的効力をもたせたものです。
- Q. 覇権条項とは何ですか?
- A. 「いかなる国も覇権を求めるべきでない」という内容の条文です。ソ連を念頭に置いた内容と受け取られ、ソ連が日本に猛反発しました。
- Q. 鄧小平はなぜ日本を訪問したのですか?
- A. 条約の批准書交換のために来日しました。あわせて日本の工場や新幹線を視察し、翌年から本格化させる改革開放路線の参考にしたとされています。
- Q. 日中平和友好条約はその後の日中関係にどんな影響を与えましたか?
- A. 両国の平和友好関係の法的基盤となり、日本からのODA(政府開発援助)や民間企業の対中投資・技術移転が急増するきっかけになりました。
日中平和友好条約は、1972年の国交正常化から6年をかけてようやく実現した条約です。「行くなや(1978)仲直り」の語呂とともに、田中角栄による共同声明(1972年)とセットで押さえましょう。覇権条項をめぐるソ連との摩擦、そして鄧小平来日による改革開放との連動は、この条約が単なる二国間の取り決めを超え、東アジアの冷戦構造を揺るがす出来事だったことを示しています。
編集メモ(ファクト)
条約調印は1978年8月12日、効力発生(批准書交換)は1978年10月23日。鄧小平の来日はこの批准書交換の機会に行われた。
覇権条項の第三国条項は条約本文ではなく口上書(外交的覚書)に記された形をとっている。
日中共同声明(1972年)には沖縄返還も同年の出来事だが、別イベントIDで扱っている(1972-okinawa-henkan)。