戦後昭和の転換点 ①高校/政治
1960
日米新安保条約(安保闘争)
岸信介(内閣総理大臣)
語呂
覚え方
行く群れ(1960)デモ、日米新安保条約
行(い=1)く(9)む(6)れ(0)=いくむれ→「行く群れ」でデモ隊の大群衆を表す
1960年(昭和35年)、岸信介内閣は1951年に結ばれた日米安全保障条約を全面改定し、新しい日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印しました。旧条約が日本に基地提供の義務だけを負わせる不平等なものだったのに対し、新条約は日米共同防衛・事前協議・条約の期限設定などを盛り込み、対等性を高めるとされました。しかし日本がアメリカの戦争に巻き込まれる懸念や、強引な国会運営への反発から空前の反対運動(安保闘争)が起こり、国会をデモ隊が包囲。東大生・樺美智子が死亡する事態になりました。衆議院での強行採決を経て条約は自然成立しましたが、岸内閣は混乱の責任をとって退陣。後継の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を掲げ、日本は政治から経済へと重心を移していきます。
この記事のポイント
- 1951年の旧安保条約を改定し、日米相互協力及び安全保障条約(新安保)を1960年に調印
- 新条約は日米共同防衛・事前協議・10年期限などを規定し、旧条約より対等な内容とされた
- 日米軍事同盟の強化への反発と強行採決への怒りから、空前の安保闘争が発生
- 国会周辺に数万人が押し寄せ、東大生・樺美智子がデモの混乱で死亡
- 条約は1960年6月に自然成立。岸内閣は退陣し、池田内閣が所得倍増計画を推進した
ここが面白い国会議事堂を数万人が取り巻いた安保闘争。東大生・樺美智子の死と強行採決が、戦後最大の政治的嵐を呼んだ。
安保改定は突然起きたのではありません。1945年の敗戦から続く占領・講和・再軍備の流れのなかで、日本がアメリカとどう向き合うかが問われ続けてきました。1960年の安保闘争を理解するには、戦後日本の安全保障の歩みを押さえる必要があります。
旧安保条約(1951年)の問題点
1951年のサンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた旧安保条約は、日本がアメリカ軍に基地を提供する義務を負う一方で、アメリカに日本防衛の明確な義務はなく、駐留米軍を国内の「騒乱」に使用できる規定まであった。日本側からは「不平等だ」という声が早くから上がっていた。
岸信介の改定交渉
1957年に首相となった岸信介は、対等な新条約の締結をアメリカとの交渉課題に据えた。粘り強い折衝の末、日米共同防衛・事前協議制度・条約の10年有効期限と破棄通告権などを盛り込んだ新条約案をまとめ、1960年1月に署名した。
反対運動の高まり
新条約への反対運動は1959年ごろから活発化した。社会党・共産党・総評(労組)・学生運動(全学連)が連合して安保改定阻止国民会議を結成。「戦争に巻き込まれる」「強行採決は民主主義への挑戦だ」という訴えが広がり、一般市民も含む大規模なデモが繰り返された。
強行採決と樺美智子の死
1960年5月、岸内閣は衆議院本会議で社会党議員を排除したうえで強行採決を敢行。これが国民の怒りをさらに燃え上がらせた。6月15日の国会突入デモで東京大学の女子学生・樺美智子が警官隊との衝突で死亡。国会議事堂を数万人が取り囲む戦後最大規模のデモへと発展した。
新安保条約の調印
≒ 日米同盟の対等化と長期化1960年1月に署名。日米双方が共同防衛を義務として明記し、基地使用には事前協議を設けた。有効期限は10年(以後は1年前通告で廃棄可能)。
安保闘争の爆発
≒ 戦後最大の市民政治運動学生・労働組合・市民が連合し、国会を数万人が包囲。強行採決への怒りが政治的スタンスを超えて広がり、日本の市民運動の原点となった。
岸内閣の退陣と経済へのシフト
≒ 政治から経済へ時代の重心が移る条約成立後に岸信介が退陣。後継の池田勇人首相が「所得倍増計画」を掲げ、国民の関心は高度経済成長へと向かっていった。
1951旧安保サンフランシスコ平和条約と同時に旧日米安全保障条約を締結。日本に基地提供義務のみを課す内容だった。
1957岸内閣岸信介が首相に就任。安保条約の対等化改定をアメリカとの最優先課題に掲げた。
1959反対運動安保改定阻止国民会議が結成され、全国規模の署名運動・デモが始まる。
1960調印・強行採決1月、新安保条約に署名。5月、衆議院で強行採決。6月、条約が自然成立。樺美智子死亡。
1960岸退陣条約成立後、岸信介が退陣。池田勇人内閣が発足し所得倍増計画を推進。
1964高度成長東京オリンピック開催。日本は政治的混乱から経済成長へ舵を切った時代の象徴となる。
◎新安保条約は日米共同防衛を明記し、旧条約より対等な形に改定された。以後の日米同盟の基礎となり、冷戦期の安全保障を支えた。
△強行採決と樺美智子の死は民主主義の手続きをめぐる深刻な問いを残した。安保闘争は戦後日本の政治文化に大きな傷跡と遺産を同時に残している。
岸信介
内閣総理大臣A級戦犯容疑者から首相へ転じた政治家。安保改定を最大の使命とし、強行採決後に退陣した。
樺美智子
東京大学学生・全学連メンバー1960年6月15日の国会突入デモで死亡。享年22歳。安保闘争の象徴的犠牲者とされる。
池田勇人
後継内閣総理大臣岸退陣後に首相就任。「所得倍増計画」を打ち出し、日本を高度経済成長路線へ導いた。
浅沼稲次郎
日本社会党委員長安保改定に反対した野党リーダー。1960年10月、演説中に右翼青年に刺殺された。
アイゼンハワー
アメリカ大統領新安保条約の締結時の米大統領。訪日予定が安保闘争の激化で中止された。
- 日米安全保障条約
- 日本とアメリカの間の軍事同盟条約。1951年の旧条約を1960年に改定。日米相互協力及び安全保障条約(新安保)は現在も有効。
- 事前協議
- アメリカが日本の基地を使って軍事行動を起こす場合に、事前に日本政府と協議する制度。新安保条約で導入された。
- 安保闘争
- 1959〜60年に起きた安保条約改定への大規模反対運動。学生・労組・市民が連合した戦後最大の政治運動。
- 所得倍増計画
- 池田勇人内閣が1960年に掲げた経済政策目標。10年間で国民所得を2倍にするとし、高度経済成長の象徴となった。
1アイゼンハワー大統領の訪日は中止になった
現職米大統領として初の公式訪日をアイゼンハワーが予定していたが、デモの激化を受けて直前にキャンセル。訪日準備で先着した大統領報道官ハガチーは羽田空港でデモ隊に取り囲まれ、ヘリコプターで救出されるという騒動が起きた(ハガチー事件)。
2条約は「自然成立」した
衆議院が条約を可決してから30日以内に参議院が議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決となって自然成立する(憲法第61条・第60条)。参議院はあえて採決を行わなかったため、1960年6月19日に条約は自動的に成立した。
3安保闘争の余波で東京五輪招致PRへ
政治的混乱を「前向きなイメージ」で上書きしたいという機運が高まり、1964年東京オリンピックへの取り組みが国民統合のシンボルとして位置づけられるようになった。
4岸信介の孫が後の首相になった
岸信介の孫にあたる安倍晋三は、後に第90・96・97・98代内閣総理大臣となった。安倍内閣は2015年に平和安全法制(安保関連法)を成立させ、集団的自衛権の限定的な行使を認めており、「安保」は再び政治争点となった。

ここが出る博士のワンポイント
改定されたのは1960年。語呂は「行く群れ(1960)デモ、日米新安保条約」。
旧安保(1951年)との違い:新安保は日米双方の共同防衛・事前協議・10年有効期限を規定。
安保闘争の象徴的人物:岸信介(推進)・樺美智子(反対・死亡)。
条約成立後の流れ:岸退陣→池田勇人内閣→所得倍増計画→高度経済成長。
条約は参議院で採決されず「自然成立」した点を押さえること。
語呂クイズ
「行く群れ(1960)デモ、日米新安保条約」= 日米新安保条約(安保闘争)は西暦何年?
- Q. 安保条約はいつ改定されましたか?
- A. 1960年(昭和35年)に改定されました。1951年の旧安保条約を全面改定し、日米相互協力及び安全保障条約(新安保)が結ばれました。
- Q. 安保闘争とは何ですか?
- A. 安保条約の改定に反対して1959〜60年に起きた大規模な反対運動です。学生・労組・市民が連合し、国会を数万人が包囲しました。強行採決や樺美智子の死を機に運動は最高潮に達しました。
- Q. 旧安保と新安保の違いは何ですか?
- A. 旧安保(1951年)は日本が基地を提供するだけでアメリカに防衛義務はありませんでした。新安保(1960年)は日米共同防衛を明記し、事前協議制度と10年の有効期限を設けた、より対等な内容になりました。
- Q. 樺美智子とは誰ですか?
- A. 東京大学の女子学生で全学連のメンバーです。1960年6月15日の国会突入デモで死亡しました(享年22歳)。安保闘争の象徴的な犠牲者とされています。
- Q. 安保闘争後の日本はどうなりましたか?
- A. 岸内閣が退陣し、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を掲げました。国民の関心は政治から経済へと向かい、高度経済成長の時代が始まりました。
60年安保は「条約の中身」だけでなく、「どう決めるか」という民主主義の手続きをめぐる戦後最大の政治的嵐でした。強行採決・樺美智子の死・アイゼンハワー訪日中止と、事件が連鎖するなかで条約は成立。しかし岸信介は退陣し、日本は政治から経済へと重心を移します。「行く群れ(1960)デモ、日米新安保条約」の語呂とともに、安保闘争が戦後日本の政治文化に残した傷跡と転換点を押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
強行採決は1960年5月19〜20日の衆議院本会議で行われた。社会党議員を排除したうえで可決。
条約の自然成立は1960年6月19日。参議院が30日以内に議決しなかったため、衆議院の議決が国会の議決となった(憲法第60条・第61条)。
浅沼稲次郎暗殺(1960年10月)は安保闘争とは別事件だが、同年の政治的混乱の連続として関連する。