戦後日本の外交 ③中学/外交
1956
日ソ共同宣言・国際連合加盟
鳩山一郎(内閣総理大臣)
語呂
覚え方
行くころ(1956)国連加盟
い(1)く(9)こ(5)ろ(6)
1956年(昭和31年)、鳩山一郎内閣はソ連との交渉を粘り強く進め、10月に日ソ共同宣言を調印しました。第二次世界大戦以来続いていた戦争状態を終わらせ、国交を回復したのです。これにより、それまで日本の国連加盟に拒否権を行使してきたソ連が反対を取り下げ、同年12月に日本は正式に国際連合へ加盟しました。1951年のサンフランシスコ平和条約で主権を回復してから5年。日本はようやく国際社会への完全な復帰を果たしました。
この記事のポイント
- 1956年10月、鳩山一郎内閣が日ソ共同宣言に調印し、ソ連との国交を回復
- 宣言により戦争状態が終結し、シベリア抑留者の帰還が実現
- ソ連が国連安保理での日本加盟への拒否権を放棄
- 同年12月18日、日本は国際連合への正式加盟が認められる(国連加盟80か国目)
- 北方領土問題は歯舞・色丹の平和条約締結後引き渡し条項にとどまり、国後・択捉は先送り
ここが面白いソ連が拒否権を手放したことで、日本はついに国際社会に完全復帰。その裏には北方領土の「未解決」という代償があった。
日本の国連加盟は、終戦直後からの外交目標でした。しかしソ連との対立という高い壁が立ちはだかり、実現までに11年を要しました。なぜこれほど時間がかかったのか、その背景を見てみましょう。
サンフランシスコ条約とソ連の不参加
1951年のサンフランシスコ平和条約は、日本が主権を回復する画期的な条約でした。しかしソ連はこの会議に出席したものの条約への署名を拒否しました。そのため日ソ間では戦争状態が法的に継続し、国交のない異常な関係が続いていました。
繰り返された国連加盟拒否
日本は1952年以降、国連加盟を複数回申請しました。しかし国連安保理の常任理事国であるソ連が拒否権を行使し続けたため、加盟は認められませんでした。冷戦構造のなかで日本はアメリカ側に立っているとみなされ、ソ連にとって加盟阻止は外交カードとなっていたのです。
鳩山内閣のソ連接近路線
1954年に発足した鳩山一郎内閣は、吉田茂前首相の対米一辺倒路線とは一線を画し、ソ連との国交正常化を主要な外交目標に掲げました。1955年にジュネーブで交渉が始まりましたが、北方領土問題(ソ連は歯舞・色丹のみ返還、日本は国後・択捉も要求)をめぐって交渉は難航しました。
日ソ共同宣言という妥協点
難航する交渉を打開するため、鳩山首相はモスクワを直接訪問し、1956年10月に日ソ共同宣言に調印しました。平和条約の締結は先送りにする代わり、戦争状態の終結と国交回復を先行させたのです。北方領土については、平和条約締結後に歯舞・色丹を引き渡すとの条項が盛り込まれましたが、国後・択捉については明記されませんでした。
日ソ共同宣言の調印(1956年10月)
≒ 外交上の「仮合意」で関係を先に正常化平和条約の締結を断念し、戦争状態終結・国交回復・抑留者帰還を先行させた。ソ連の拒否権放棄につながる決定打となった。
国際連合への加盟(1956年12月18日)
≒ 国際社会への完全復帰国連総会で全会一致で承認され、日本は80か国目の加盟国となった。重光葵外相が国連総会で受諾演説を行った。
シベリア抑留者の帰還
≒ 長年放置された人道問題の解決宣言により、残留していたシベリア抑留者約1,000人の帰還が実現。家族のもとへ戻れなかった人々にとって待望の結果だった。
1945終戦第二次世界大戦終結。ソ連は対日参戦し、満州・樺太・千島列島を占領。多数の日本人がシベリアに抑留された。
1951講和条約サンフランシスコ平和条約で日本が主権回復。ソ連は署名せず、日ソ間は法的に戦争状態が継続。
1952国連申請日本が初めて国連加盟を申請。ソ連が安保理で拒否権を行使し否決される。
1955交渉開始ロンドン・ジュネーブで日ソ交渉が始まる。北方領土問題で折り合わず難航。
1956国交回復10月、鳩山首相がモスクワを訪問し日ソ共同宣言に調印。戦争状態終結・国交回復が実現。
1956国連加盟12月18日、国連総会で日本の加盟が全会一致で可決。国際社会への完全復帰を果たした。
◎国際連合加盟により、日本は国際社会に完全復帰。国連のさまざまな機関や活動に参加できるようになり、その後の経済復興・国際貢献の基盤が整った。
△北方領土問題は解決されないまま先送りになった。日ソ平和条約は現在(2026年時点)も締結されておらず、北方領土交渉は未完の外交課題として残っている。
鳩山一郎
内閣総理大臣ソ連との国交正常化を最大の外交目標に掲げた。モスクワを直接訪問して日ソ共同宣言に調印。脳梗塞後の不自由な体での訪問は「決死の外交」と評された。
重光葵
外務大臣北方領土に関して四島返還を主張し、鳩山首相とは交渉方針で対立した。
ブルガーニン
ソ連首相(当時)日ソ共同宣言の調印相手。フルシチョフと並ぶ当時のソ連指導部の一人。
松本俊一
日ソ交渉全権大使ロンドン・ジュネーブでソ連側と実務交渉にあたり、日ソ共同宣言の内容を詰めた。
ダグ・ハマーショルド
国連事務総長(当時)日本の国連加盟申請を受理・推進した国連指導者。
- 日ソ共同宣言
- 1956年10月19日に調印された、日本とソ連の戦争状態終結・国交回復を宣言した文書。平和条約ではなく「宣言」として、係争中の北方領土問題を棚上げにしたまま国交を回復する苦肉の策だった。
- 国際連合(国連)
- 第二次世界大戦後の1945年に設立された国際平和機関。安全保障理事会(安保理)と総会が主要機関で、常任理事国(当時は米英仏ソ中)は拒否権を持つ。
- 拒否権
- 国連安全保障理事会の常任理事国(米英仏ソ中)が持つ特権。5か国のうち1か国でも反対すれば決議が否決される。ソ連はこれを使って日本の国連加盟を繰り返し阻止した。
- 北方領土
- 北海道の北東に位置する歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の総称。1945年にソ連が占領し、日ソ双方が領有を主張する未解決の領土問題。
- シベリア抑留
- 終戦後、満州などで武装解除された日本兵や民間人がソ連軍によってシベリア等に連行され、強制労働に従事させられた出来事。約60万人以上が抑留され、多数が死亡した。
1病身の鳩山首相が「決死の」モスクワ訪問
鳩山一郎首相は脳梗塞の後遺症で左半身にまひが残り、杖を使わなければ歩けない状態だった。それでも「自分の手で国交回復を成し遂げる」と、モスクワへの直接訪問を断行した。調印後まもなく首相を辞任し、政治家としての最後の仕事がこの外交だった。
2ソ連が「出すぎた真似」と批判したアメリカ
日ソ交渉が進むなか、アメリカ国務省は日本が歯舞・色丹のみの返還で妥協すれば、沖縄を永続的にアメリカが保有し続けるという「ダレスの恫喝」と呼ばれる圧力をかけた。これが国後・択捉まで含めた四島返還要求を日本側に強いる背景になった。
3加盟番号は「80番目」
日本は1956年12月18日に国連加盟が承認され、80か国目の加盟国となった。現在では193か国が加盟しているが、当時の加盟国数はまだ80か国に満たない段階だった。
4帰れなかった人々への区切り
日ソ共同宣言により、それまで帰国できていなかったシベリア抑留者約1,000人の帰還が実現した。すでに数万人が現地で命を落としており、帰還は遅すぎた区切りでもあった。

ここが出る博士のワンポイント
1956年、鳩山一郎内閣が日ソ共同宣言を調印し、ソ連との国交を回復した。
日ソ共同宣言により、ソ連が国連安保理での拒否権行使をやめ、同年12月に日本の国連加盟が実現した。
北方領土問題:歯舞・色丹は平和条約締結後に引き渡すと明記されたが、国後・択捉は先送りになった。
語呂は「行くころ(1956)国連加盟」。い(1)く(9)こ(5)ろ(6)で1956を覚える。
1951年のサンフランシスコ平和条約(主権回復)とセットで、戦後日本の外交の流れとして理解すること。
語呂クイズ
「行くころ(1956)国連加盟」= 日ソ共同宣言・国際連合加盟は西暦何年?
- Q. 日ソ共同宣言と日ソ平和条約は違うのですか?
- A. 異なります。日ソ共同宣言(1956年)は戦争状態の終結と国交回復を宣言した文書で、平和条約ではありません。北方領土問題が未解決のため平和条約は締結されず、現在も日ロ間に正式な平和条約は存在しません。
- Q. なぜソ連は日本の国連加盟に反対していたのですか?
- A. 日本がアメリカ側の西側陣営に属しており、日ソ間の戦争状態も続いていたためです。冷戦構造のなかで、日本の国連加盟阻止はソ連にとって外交的な交渉カードでもありました。
- Q. 北方領土はなぜ返ってこなかったのですか?
- A. ソ連は歯舞・色丹の2島(正確には歯舞群島と色丹島)のみ返還を提案しましたが、日本は国後・択捉を含む四島返還を主張しました。アメリカからの圧力もあり折り合わず、平和条約なしの「国交だけ回復」という形になりました。
- Q. シベリア抑留とは何ですか?
- A. 1945年の終戦後、ソ連軍が満州などで武装解除した日本の軍人・民間人をシベリアなどに連行し、強制労働させた出来事です。約60万人以上が抑留され、多くが過酷な環境で死亡しました。日ソ共同宣言で残留者の帰還が実現しました。
- Q. 国際連合に加盟するとどんなメリットがあるのですか?
- A. 国連の諸機関(世界保健機関・ユネスコ等)への参加、国際紛争の平和的解決へのアクセス、国際社会での発言権の獲得などが挙げられます。日本にとっては戦後の国際社会への完全な復帰を意味しました。
1956年の国連加盟は、終戦から11年をかけてようやく達成された「国際社会への完全復帰」です。鳩山一郎首相が病身をおして実現させた日ソ共同宣言がそのカギでした。しかし北方領土という未解決の問題を抱えたままの「妥協の国交回復」でもあり、その代償は今日まで続いています。「行くころ(1956)国連加盟」の語呂とともに、戦後日本外交の光と影を押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
日ソ共同宣言の調印日は1956年10月19日、国連加盟承認は同年12月18日。
北方領土の引き渡し条項(歯舞・色丹)は日ソ共同宣言第9項に明記されているが、平和条約の締結が前提。
「ダレスの恫喝」については諸説あり、断定的表現を避けた。