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日独伊三国同盟の浮世絵イラスト
日中・太平洋戦争への道 ③高校/外交
1940

日独伊三国同盟

近衛文麿(第2次内閣・首相)、松岡洋右(外相)
語呂
覚え方
行くよ(1940)お仲間、日独伊三国同盟
い(1)く(9)よ(4)お(0)

1940年(昭和15年)9月27日、日本・ドイツ・イタリアの3か国はベルリンで日独伊三国同盟に調印しました。第2次近衛文麿内閣の外相・松岡洋右が主導した外交決断です。ドイツがフランスを電撃占領した隙を突いて南方進出をねらう日本と、アメリカの参戦を牽制したいドイツの思惑が合致しての締結でした。しかしこの選択はアメリカとの対立を決定的なものとし、屑鉄・石油禁輸という経済制裁を招きます。翌1941年の太平洋戦争開戦へとつながる、歴史の大きな分岐点となりました。

この記事のポイント

  • 1940年9月27日、日本・ドイツ・イタリアが三国同盟に調印(枢軸国の形成)
  • 第2次近衛文麿内閣の外相・松岡洋右が主導し、ベルリンで締結
  • 互いの「指導的地位」を承認し、第三国(主にアメリカを想定)が参戦した場合の相互援助を規定
  • アメリカとの対立が決定的に深まり、屑鉄・石油禁輸など経済制裁を招いた
  • 翌1941年の太平洋戦争(真珠湾攻撃)の遠因となった
ここが面白い

「枢軸」に飛び込んだその日、アメリカとの戦争への道が決定的に開かれた。

ここに至るまでの流れ
背景

日独伊三国同盟は突然の決断ではありません。1930年代を通じて日本が軍事国家化し、国際社会から孤立を深めていく過程の「総決算」ともいえる出来事です。その背景をたどりましょう。

満洲事変・日中戦争と国際孤立

1931年の満洲事変、1937年の日中戦争開戦と、日本は中国への侵攻を拡大しました。国際連盟から脱退(1933年)し、欧米との関係は悪化の一途をたどります。長期化する日中戦争を打開するには資源が必要で、南方の石油・ゴムを産するオランダ領インド(現インドネシア)などへの進出が課題となっていました。

ヨーロッパの激変——ドイツの電撃戦

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発します。1940年春、ドイツは電撃戦でオランダ・ベルギーを制圧し、6月にはフランスを降伏させました。当時の日本軍上層部には「ドイツに乗り遅れるな」という焦りが広がりました。

南進政策と仏印進駐

フランス降伏後、日本はフランスの植民地・仏領インドシナ(現ベトナム北部)への進駐を強行します(1940年9月)。南方の資源獲得ルートを確保するためです。アメリカはこれを強く批判し、屑鉄・鉄くずの対日禁輸に踏み切りました。

日独伊三国同盟調印へ

南進と北進(対ソ連)の両にらみを続けていた日本は、外相・松岡洋右の主導で1940年9月27日に三国同盟を締結します。第三国(事実上アメリカ)が参戦した場合の相互援助を規定することで、アメリカの対日・対独参戦を牽制する狙いでした。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

「指導的地位」の相互承認

≒ それぞれの勢力圏を認め合う約束

日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアの、ドイツ・イタリアは大東亜における日本の指導的地位を認めた。

第三国参戦時の相互援助義務

≒ どちらかが攻撃されたら助け合う軍事同盟

三国のいずれかに対して現在欧州戦争・日中戦争に参加していない国(主にアメリカ)が攻撃した場合、あらゆる手段で援助する義務を規定した。

日ソ中立条約との組み合わせ

≒ 背後を固めつつ南へ進む二段構え

翌1941年4月には日ソ中立条約を締結。北方のソ連と手打ちし、南方資源地帯への進出に集中できる体制を整えた。

前後のできごと
年表
1937
日中戦争盧溝橋事件を機に日中全面戦争が開始。長期化により資源不足が深刻になる。
1938
国家総動員法戦争遂行のため、国民・資源を政府が統制できる国家総動員法を公布。
1939
第2次大戦勃発ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まる。
1940
三国同盟調印9月27日、日独伊三国同盟をベルリンで調印。アメリカが屑鉄禁輸を強化。
1941
日ソ中立条約・南進4月に日ソ中立条約。7月に南部仏印進駐。アメリカが石油全面禁輸に。
1941
太平洋戦争開戦12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。
結果とその後
結果
△アメリカとの対立が決定的になり、屑鉄・石油禁輸など経済制裁が強化された。石油の8割以上をアメリカに依存していた日本は、資源確保のための南進をさらに加速させ、太平洋戦争へと突き進んだ。
△同盟はアメリカの参戦を抑止するはずだったが、逆効果となった。ドイツが対ソ戦(バルバロッサ作戦)を開始した際も日本はすぐに対ソ参戦せず、同盟の実効性は限定的だった。
登場人物
人物

近衛文麿

第2次内閣・首相

公家出身の人気政治家。三国同盟締結・国家総動員法・大政翼賛会など戦時体制の主要決断を下した。

松岡洋右

外相

三国同盟・日ソ中立条約を主導した外交官。強引な外交スタイルで知られ、のちに近衛に更迭された。

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

ドイツ外相

ドイツ側で三国同盟交渉を主導。調印式でサインした。

ガレアッツォ・チャーノ

イタリア外相

ムッソリーニの娘婿で外相。イタリア側で調印した。

キーワード解説
用語
枢軸国
日独伊三国同盟を中心とした国家群の総称。連合国(英・米・ソなど)と対立した。「枢軸」はもともとベルリン=ローマ枢軸(1936年)に由来する。
南進政策
東南アジアの資源地帯(石油・ゴム・ボーキサイト等)に勢力を拡大しようとする日本の政策方針。
仏領インドシナ
現在のベトナム・ラオス・カンボジアにあたるフランスの植民地。日本は1940年9月(北部)、1941年7月(南部)と二段階で進駐した。
日ソ中立条約
1941年4月、日本とソ連が締結した中立に関する条約。日本の北方の脅威を除き、南進を可能にした。ソ連は1945年8月に一方的に破棄して満洲に侵攻した。
もっと知りたい
豆知識

1調印はベルリンで、日本側の署名者は駐独大使だった

1940年9月27日の調印式はベルリンの新総統官邸で行われた。日本側で署名したのは外相の松岡洋右ではなく、駐独大使の来栖三郎である。松岡は東京にあって同盟締結の政策を主導した外相で、ベルリンを訪れてヒトラーらと会談するのは翌1941年春のことだった。

2陸軍はほぼ全員賛成、海軍は慎重派が多かった

陸軍はドイツの軍事的成功に乗じて南進する好機とみて同盟を強く支持した。一方、海軍はアメリカとの戦争を現実的に想定しており、開戦リスクを懸念する慎重論が根強かった。

3アメリカを名指ししなかった「工夫」

条約の条文では「第三国」とだけ書いてアメリカを明記しなかった。外交上の体裁を保ちながらも、関係者全員がアメリカを想定していたのは公然の秘密だった。

4松岡はのちに「あれは失敗だった」と述懐した

三国同盟締結の立役者・松岡洋右は、晩年に「三国同盟で日本はかえって孤立した」と後悔を語ったとされる。A級戦犯として東京裁判に起訴されたが、開廷後まもない1946年6月に肺結核で病死し、判決を受けることはなかった。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
締結年は1940年。語呂「行くよ(い1く9よ4お0)お仲間」で覚える。
第2次近衛文麿内閣の外相・松岡洋右が主導した点は頻出。
目的はアメリカの参戦抑止と南進の推進。実際はアメリカとの対立を深めた。
翌1941年4月の日ソ中立条約とセットで「北守南進」体制を理解すること。
日独伊防共協定(1937年)→三国同盟(1940年)の流れも押さえておく。
語呂クイズ
「行くよ(1940)お仲間、日独伊三国同盟」= 日独伊三国同盟は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 日独伊三国同盟はいつ締結されましたか?
A. 1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印されました。
Q. 日独伊三国同盟を締結したときの日本の首相は誰ですか?
A. 第2次近衛文麿内閣の首相・近衛文麿です。外交を主導したのは外相の松岡洋右でした。
Q. 三国同盟でアメリカとの関係はどうなりましたか?
A. 対立が決定的に深まりました。アメリカは屑鉄・石油の禁輸を強化し、日本は資源不足に追い込まれて太平洋戦争へ向かいます。
Q. 日独伊防共協定と三国同盟の違いは何ですか?
A. 防共協定(1936〜37年)はソ連(コミンテルン)への対抗が主目的の協定です。三国同盟(1940年)はより踏み込んだ軍事同盟で、第三国(アメリカ)が参戦した場合の相互援助義務を含みます。
Q. 「枢軸国」という言葉はどこから来ましたか?
A. 1936年のベルリン=ローマ枢軸(独伊の友好協定)に由来します。その後日本が加わり、三国同盟で枢軸国が形成されました。
まとめ

日独伊三国同盟は、ドイツの快進撃に乗じた「絶好のチャンス」のはずでした。しかし現実には、アメリカとの対立を決定的にし、石油禁輸という致命的な経済制裁を招く結果となりました。「行くよ(1940)お仲間」という語呂とともに、この選択が翌1941年の太平洋戦争への決定的な一歩だったことを押さえておきましょう。近衛文麿・松岡洋右という人物名も入試頻出です。

編集メモ(ファクト)
調印日は1940年9月27日(昭和15年)。ベルリンの新総統官邸での式典。
条約の正式名称は「日本国、ドイツ国及びイタリア国間三国条約」。
アメリカを想定した相互援助条項が核心だが、条文上は「第三国」と表記されている。