昭和の戦争 ②中学/戦乱
1937
日中戦争
近衛文麿(第1次内閣)・蒋介石(中国国民政府)
語呂
覚え方
戦なが(1937)引く、日中戦争
い(1)く(9)さ(3)な(7)びく
1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突しました。最初は局地的な「事件」のはずが、わずか数週間で全面戦争へ拡大。日本は宣戦布告をせず、中国も正式な宣戦をためらったため、「支那事変」という名のもとに戦火は広がり続けます。同年末には首都・南京が陥落し、翌1938年には国家総動員法が制定されて国民生活は戦時体制に。蒋介石率いる国民政府は重慶に逃れてソ連やアメリカの支援を受けながら徹底抗戦を続け、泥沼化した戦争は1945年の日本敗戦まで8年間にわたって続きました。
この記事のポイント
- 1937年7月7日、盧溝橋事件を発端に日中全面戦争へ拡大
- 宣戦布告なき戦争として「支那事変」と呼ばれ、法的には「事変」のまま続いた
- 第1次近衛文麿内閣のもと、同年末に首都・南京が陥落
- 1938年に国家総動員法制定、戦時体制が国内に敷かれた
- 国民政府は重慶へ退いて国共合作・連合国の支援で抗戦を継続し、1945年まで戦争は終結しなかった
ここが面白い宣戦布告なしに始まり、宣戦布告なしに終わった。「戦争」と呼ばれながら、法的には「事変」のまま8年間続いた異例の全面戦争。
日中戦争は、1937年7月に突然始まったのではありません。1931年の満州事変からの「中国への侵攻路線」が積み重なった末に起きた出来事です。ここに至るまでの流れを振り返りましょう。
満州事変からの流れ(1931〜1936年)
1931年の満州事変で日本が満州を占領すると、翌1932年には満州国を建国。国際連盟の批判を受けた日本は1933年に連盟を脱退します。その後、日本は華北(中国北部)への影響力拡大を図り、中国との緊張は年々高まっていました。
中国国内の状況と国共合作
中国では国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が内戦を続けていましたが、1936年の西安事件をきっかけに両者は内戦を停止。「一致して日本に対抗する」という第2次国共合作の機運が生まれ、日本との全面対決に備え始めていました。
二・二六事件と軍部の台頭(1936年)
1936年2月26日、陸軍青年将校がクーデターを起こした二・二六事件が発生。鎮圧後、軍部の政治的発言力はかえって強まり、「軍が主導して対外政策を決める」という流れが加速しました。この軍部優勢の状況が、盧溝橋事件後の急速な戦線拡大を後押しします。
近衛文麿内閣の発足(1937年6月)
盧溝橋事件の1か月前、1937年6月に第1次近衛文麿内閣が発足しました。近衛は国民的人気が高く「政治家として軍を抑えられる」と期待されましたが、結果的に開戦と戦線拡大を止めることができませんでした。
盧溝橋事件(1937年7月7日)
北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突。演習中の日本軍に向けて銃声が響き、交戦状態へ。誰が最初に発砲したかは現在も諸説あり、解明されていない。
戦線の急速な拡大
当初「局地解決」を見込んでいた日本政府は8月に上海でも戦闘が始まると本格的な軍事介入を決定。短期決戦の見通しははずれ、戦線は中国全土へ拡大した。
南京陥落と南京事件(1937年12月)
首都・南京が日本軍の占領下に入った際、多数の中国軍民が殺害されたとされる南京事件が起きた。犠牲者数など詳細については現在も日中間で見方に相違があり、歴史研究上の議論が続いている。
近衛声明と外交的行き詰まり(1938年)
蒋介石が和平交渉に応じないとみた近衛首相は「国民政府を対手にせず」と声明を発表(第1次近衛声明)。これにより和平の道が事実上断ち切られ、戦争長期化が決定的になった。
1931満州事変柳条湖事件を口実に日本が満州を占領。中国侵攻路線が始まる。
1937盧溝橋事件7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突。日中全面戦争へ拡大。
1937南京陥落12月、首都・南京が陥落。南京事件が起きたとされる(詳細は諸説あり)。
1938国家総動員法政府が議会を経ずに人員・物資を戦争に動員できる法律を制定。
1940日独伊三国同盟ドイツ・イタリアと軍事同盟を締結。対米関係が悪化。
1941太平洋戦争真珠湾攻撃で対米英開戦。日中戦争は太平洋戦争と一体化。
1945終戦8月15日、日本がポツダム宣言を受諾。日中戦争も終結。
△泥沼化した戦争は8年間続き、日本の国力を著しく消耗させた。国内では国家総動員法のもと物資・人員の統制が強化され、国民生活は戦時体制へと移行した。
△宣戦布告をしなかったことでアメリカの「中立法」(武器禁輸)の適用を避けようとしたが、かえって戦争の長期化と国際的孤立を招いた。
△日中戦争の長期化が太平洋戦争開戦の遠因となり、最終的に日本の敗戦につながった。
第1次内閣総理大臣(1937〜1939年)開戦時の首相。「国民政府を対手にせず」の声明で和平の道を閉ざした。のちに第2次・第3次内閣も組閣。
蒋介石
中国国民政府主席南京陥落後も重慶に首都を移し、ソ連・アメリカの支援を受けながら徹底抗戦を続けた。
毛沢東
中国共産党指導者国共合作のもと国民党と協力して日本に対抗。戦後の中国内戦では国民党に勝利し中国共産党政権を樹立。
松井石根
上海派遣軍司令官(のち中支那方面軍司令官)南京攻略戦を指揮。戦後、南京事件の責任を問われ東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
石原莞爾
陸軍参謀本部作戦部長満州事変の立案者だが、日中戦争の拡大には反対し「戦線拡大は国力を超える」と警告した一人。
- 盧溝橋事件
- 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した事件。日中全面戦争の直接的な発端。
- 支那事変
- 日本が日中戦争に対して用いた公式呼称。宣戦布告をしなかったため「戦争」ではなく「事変」と呼んだ。現在は「日中戦争」が一般的。
- 国共合作
- 国民党と共産党が内戦を停止して対日戦線を統一した協力体制。1937年9月に成立した第2次国共合作が代表的。
- 国家総動員法
- 1938年制定。政府が戦争遂行のために議会の承認なしに国民・物資・企業・報道などを統制できる権限を持つ法律。
- 南京事件
- 1937年12月の南京占領時に多数の中国軍民が殺害されたとされる事件。犠牲者数など詳細については日中間で見方が異なり、現在も歴史研究上の議論が続く。
1「戦争」なのに宣戦布告がなかった理由
日本が宣戦布告しなかったのは、アメリカの「中立法」を避けるためだった。当時の中立法は「交戦国」への武器輸出を禁止していたため、正式に戦争と認定されると中国はアメリカから武器を買えなくなる。日本側もこれを逆手に取り「事変」の形にとどめたが、アメリカは実態が全面戦争と判断し、やがて中国支援に動くことになった。
2近衛の「一撃で解決」という楽観論
開戦当初、日本陸軍の一部には「三か月で決着がつく」という楽観的な見方があった。しかし蒋介石は予想外の徹底抗戦を選択。南京を失っても内陸の重慶へ退き、首都機能を維持したまま連合国の支援を得て抗戦を続けた。
3「重慶爆撃」と無差別爆撃の問題
日本軍は蒋介石の拠点・重慶に対して繰り返し空爆を実施した(重慶爆撃)。市民への被害が大きく、国際的な批判を浴びたが爆撃は1944年まで続いた。戦後の戦犯裁判でも問題になった。
4汪兆銘政権の樹立
国民党の要人だった汪兆銘は日本との和平路線を主張し、1940年に南京に親日政権を樹立した。しかし蒋介石の重慶政府が連合国に承認され続けたため、汪政権は国際的な正統性を得られなかった。

ここが出る博士のワンポイント
日中戦争の発端は1937年7月7日の盧溝橋事件。「い(1)く(9)さ(3)な(7)びく、日中戦争」と語呂で押さえる。
宣戦布告なき「事変」として「支那事変」と称したこと。その理由(中立法回避)もあわせて理解しておく。
首相は第1次近衛文麿内閣。「国民政府を対手にせず」(第1次近衛声明)が和平を閉ざした。
1938年の国家総動員法は日中戦争長期化の産物。議会の承認なしに総動員できる点が重要。
満州事変(1931)→日中戦争(1937)→太平洋戦争(1941)という「昭和の戦争」の流れを軸に整理すること。
語呂クイズ
「戦なが(1937)引く、日中戦争」= 日中戦争は西暦何年?
- Q. 日中戦争はいつ始まりましたか?
- A. 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した盧溝橋事件が直接の発端です。その後、戦線は急速に拡大して全面戦争となりました。
- Q. なぜ「日中戦争」ではなく「支那事変」と呼ばれたのですか?
- A. 日本が宣戦布告をしなかったため、法的に「戦争」と認定されず「事変(局地的な武力衝突)」と呼ばれました。アメリカの中立法(交戦国への武器禁輸)の適用を避けるという外交上の理由もありました。
- Q. 蒋介石はなぜ和平に応じなかったのですか?
- A. 蒋介石は南京を失っても重慶に首都を移し、ソ連やアメリカ・イギリスからの支援を得ながら長期抗戦を選びました。近衛首相の「国民政府を対手にせず」という声明もあり、交渉の糸口は断ち切られていました。
- Q. 国家総動員法とはどのような法律ですか?
- A. 1938年に制定された法律で、政府が戦争遂行のために議会の承認を経ずに国民・物資・企業・報道などを統制できる権限を持ちます。日中戦争の長期化にともない、戦時体制を整えるために作られました。
- Q. 日中戦争はいつ終わりましたか?
- A. 1945年8月15日の日本の敗戦(ポツダム宣言受諾)とともに終結しました。開戦から終結まで約8年間続いた長期戦でした。
日中戦争は「三か月で解決できる」という楽観から始まりながら、8年間に及ぶ長期戦となりました。宣戦布告なき「事変」として始まり、泥沼化するなかで国家総動員法のもと国内は戦時体制へ。そして1941年の太平洋戦争開戦へとつながり、最終的に日本の敗戦まで続きます。語呂は「い(1)く(9)さ(3)な(7)びく(戦ながびく)、日中戦争」。1937年を起点に、昭和の戦争が一本の流れとしてつながっていることをイメージしながら覚えましょう。
編集メモ(ファクト)
南京事件の犠牲者数・実態については日中間で見方が大きく異なり、歴史研究上も議論が続いているため、断定を避け「多数の中国軍民が殺害されたとされる」「諸説あり」という表現にとどめた。
「支那事変」は当時の公式呼称だが、現代では差別的とみなされる場合があるため、本文中では用語解説以外では「日中戦争」を使用した。
goro_reading の「い(1)く(9)さ(3)な(7)びく」は events.json の goro「戦なが(1937)引く」の読みを音韻分解したもの(1=い、9=く、3=さ、7=な)。