昭和の戦争 ③中学/戦乱
1941
太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)
東條英機(内閣総理大臣)・山本五十六(連合艦隊司令長官)
語呂
覚え方
行くよ一気(1941)に真珠湾
いく(19)よ(4)いき(1)に真珠湾
1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、日本軍はアメリカの海軍基地があるハワイの真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃するとともに、マレー半島にも上陸を開始しました。これにより、アメリカ・イギリスに対して正式に宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。それまで続いていた日中戦争に加え、戦火はアジア・太平洋全域に広がり、日本は1945年8月の終戦まで4年近い戦争を戦うことになります。
この記事のポイント
- 1941年12月8日(日本時間)、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、同時にマレー半島にも上陸
- アメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が開始
- 背景には日中戦争の長期化、日独伊三国同盟、ABCD包囲網による対日経済制裁、日米交渉の決裂がある
- 1942年のミッドウェー海戦を転機に戦局は日本側に不利となり、各地で激戦が続く
- 1945年8月、ポツダム宣言を受諾して終戦。太平洋戦争は約4年間続いた
ここが面白い真珠湾攻撃と同じ日、マレー半島にも上陸作戦が展開されていた。太平洋戦争は「一発」ではなく、複数の戦線で同時に始まった。
太平洋戦争は、1931年の満州事変に始まる一連の流れの末に起きた出来事です。日中戦争が長引くなか、日本をとりまく国際情勢が急速に悪化し、最終的に開戦へと至った背景を整理しましょう。
日中戦争の泥沼化
1937年に始まった日中戦争(支那事変)は、当初「短期で終わる」と見られていましたが、長期化し解決の糸口が見えなくなりました。大量の人員・物資が投入され続けたことで、日本本土でも物資不足が深刻化していきます。
日独伊三国同盟の締結(1940年)
1940年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結びました(日独伊三国同盟)。これはアメリカへの牽制を意図したものでしたが、逆にアメリカとの関係をさらに悪化させる結果となります。
ABCD包囲網と石油の禁輸
日本の中国や東南アジアへの進出に対し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)が経済制裁で対抗しました。1941年8月、アメリカは対日石油全面禁輸を実施。当時の日本は石油の多くをアメリカからの輸入に頼っており、軍・産業双方で深刻な影響が出ました。
日米交渉の決裂
1941年を通じて日米間で外交交渉が続けられましたが、中国からの日本軍撤退などをめぐって折り合いがつかず、11月末にアメリカが提示した「ハル・ノート」を事実上の最後通牒とみなした日本政府は、対米英開戦を最終決定しました。
真珠湾奇襲攻撃
≒ 敵の主力艦隊を一撃で無力化する先制攻撃1941年12月8日(日本時間)早朝、日本海軍の航空部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊基地を奇襲。多数の艦船・航空機が被害を受けた。ただし、空母はこの時港に不在だったため、アメリカの空母戦力は温存された。
マレー半島上陸
≒ 資源地帯への進出作戦真珠湾攻撃と同時刻前後に、日本陸軍がイギリス領マレー半島(現マレーシア)のコタバルに上陸を開始。東南アジアの資源地帯を確保するための作戦の一環だった。
対米英宣戦布告
≒ 国家間の正式な開戦通告日本政府はアメリカとイギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が正式に始まった。翌日、アメリカ議会は日本への宣戦を決議した。
1931満州事変日本軍が満州(中国東北部)で軍事行動を起こし、翌年満州国を建国。国際連盟との対立が始まる。
1937日中戦争盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。長期化し、解決の見通しが立たなくなる。
1938国家総動員法戦争遂行のため、政府が国民・産業・物資を統制できる国家総動員法を制定。
1940三国同盟日独伊三国同盟締結。アメリカとの関係がさらに悪化する。
1941開戦12月8日(日本時間)、真珠湾奇襲とマレー半島上陸で太平洋戦争が始まる。
1942ミッドウェーミッドウェー海戦で日本海軍が主力空母4隻を失い、太平洋の制海・制空権が揺らぎ始める。
1944戦況悪化サイパン島が陥落し、アメリカ軍の爆撃機が日本本土に届く範囲に。本土への空襲が本格化する。
1945終戦8月15日、昭和天皇がポツダム宣言受諾を放送(玉音放送)。9月2日に降伏文書に調印し、太平洋戦争が終結。
△開戦当初、日本軍は東南アジア・太平洋各地で優位に戦いを進めた。しかし1942年のミッドウェー海戦を境に戦局は変化し、以後は消耗戦となった。
△1945年の終戦まで、日本国内外で多くの犠牲が生じた。また、1945年8月には広島・長崎に原子爆弾が投下された。戦後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領下に置かれ、新たな国家体制の再建を進めることになった。
東條英機
内閣総理大臣(開戦時)1941年10月に組閣。対米英開戦の決定を主導した。
山本五十六
連合艦隊司令長官真珠湾攻撃作戦を立案・指揮した海軍の最高指揮官。対米戦争に懐疑的だったとも伝えられる。
コーデル・ハル
アメリカ国務長官日米交渉の末に「ハル・ノート」を提示。日本はこれを事実上の最後通牒と受け取った。
フランクリン・ルーズベルト
アメリカ大統領真珠湾攻撃の翌日、議会で「12月7日は恥辱の日」と演説し、対日宣戦布告を求めた。
- 太平洋戦争
- 1941年12月から1945年8月まで、日本とアメリカ・イギリスなど連合国との間で行われた戦争。アジア・太平洋全域が戦場となった。
- 真珠湾(パールハーバー)
- ハワイ島オアフ島にあるアメリカ海軍の基地。1941年12月8日(日本時間)に日本海軍が奇襲攻撃した場所として知られる。
- ABCD包囲網
- 日本の南進政策に対抗したアメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済封鎖・制裁の総称。特に石油の禁輸が日本に深刻な影響を与えた。
- ハル・ノート
- 1941年11月、アメリカ国務長官ハルが日本に提示した文書。中国・仏印からの日本軍全面撤退などを求める内容で、日本側は受け入れ不可能と判断した。
- ミッドウェー海戦
- 1942年6月、太平洋のミッドウェー島近海で行われた日米の海戦。日本海軍が主力空母4隻を失い、戦局の転換点となった。
1真珠湾攻撃とマレー上陸は「同じ日」だった
1941年12月8日(日本時間)、真珠湾攻撃と同じ頃、日本陸軍はマレー半島のコタバルに上陸を開始していた。太平洋戦争は単一の「奇襲」ではなく、東南アジアも含む多方面同時作戦として始まった。
2空母は真珠湾にいなかった
真珠湾攻撃で日本軍が狙っていたアメリカの空母3隻は、攻撃当日に偶然、港を離れていた。後の太平洋の戦いでは空母が主力となるため、この「不在」はアメリカにとって大きな幸運だったとされる。
3開戦の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」
真珠湾攻撃開始の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、作戦決行を命じる信号だった。「新高山登れ」とは、当時日本統治下にあった台湾の最高峰(新高山)に登れ、つまり「作戦を実行せよ」を意味する。
4日米交渉は終戦まで続いていたわけではない
開戦前、1941年を通じて日米両国は外交交渉を続けていた。しかし11月末のハル・ノートを機に実質的に決裂し、日本側はすでに進行中だった開戦準備を止めなかった。

ここが出る博士のワンポイント
開戦は1941年12月8日(日本時間)。語呂は「行くよ一気(1941)に真珠湾」。
真珠湾攻撃と同日にマレー半島上陸も開始された点も押さえておこう。
開戦の背景:日中戦争の長期化→ABCD包囲網(石油禁輸)→日米交渉の決裂→開戦、の流れを整理する。
1942年のミッドウェー海戦が戦局転換の「転機」として頻出。
終戦(1945年)と混同しないこと。開戦1941年・終戦1945年。
語呂クイズ
「行くよ一気(1941)に真珠湾」= 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)は西暦何年?
- Q. 太平洋戦争はいつ始まりましたか?
- A. 1941年12月8日(日本時間)、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、同時にマレー半島に上陸したことで始まりました。
- Q. なぜ日本はアメリカと戦争を始めたのですか?
- A. 日中戦争の長期化で資源が不足するなか、アメリカなどによる経済制裁(特に石油禁輸)が追い打ちをかけました。日米交渉が行き詰まり、日本政府・軍部は南方の資源地帯を確保するために開戦を選択しました。
- Q. ABCD包囲網とは何ですか?
- A. 日本の南進政策に対抗した、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済封鎖・制裁の総称です。特にアメリカによる石油禁輸が日本に大きな打撃を与えました。
- Q. ミッドウェー海戦はなぜ重要ですか?
- A. 1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻を失い、太平洋での制空・制海権の優位が崩れ始めました。以後、日本側の戦局は次第に不利となっていきます。
- Q. 太平洋戦争はいつ終わりましたか?
- A. 1945年8月15日、昭和天皇がポツダム宣言受諾を放送(玉音放送)し、9月2日に降伏文書に調印して終結しました。開戦から約4年間の戦争でした。
太平洋戦争の開戦は、満州事変(1931年)から続く一連の流れのなかで、日中戦争の長期化・資源不足・国際的孤立が重なって起きた出来事です。真珠湾攻撃は世界に衝撃を与えましたが、1942年のミッドウェー海戦以降、戦局は変化し、最終的に1945年の終戦へと至ります。「行くよ一気(1941)に真珠湾」の語呂で年号を押さえながら、開戦に至った背景と、その後の流れを一連でつかんでおきましょう。
編集メモ(ファクト)
真珠湾攻撃の日付は「日本時間12月8日」。ハワイ現地時間では12月7日であり、アメリカでは'December 7, 1941'として記憶されている。
「ABCD包囲網」という名称は日本側の呼称。各国が明示的に連携した同盟ではなく、個別の経済制裁の総称として用いられた。
犠牲者数など具体的な数値は資料によって異なるため、本文では数値の断定を避けた。
山本五十六が「対米戦を好まなかった」とする逸話は有名だが、史料上の評価は多様なため「とも伝えられる」と注記した。