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米騒動・原敬内閣の浮世絵イラスト
大正デモクラシー ①中学/社会
1918

米騒動・原敬内閣

原敬(立憲政友会総裁・第19代内閣総理大臣)
語呂
覚え方
行くいや(1918)、米よこせの米騒動
いく(19)いや(18)

1918年(大正7年)の夏、米の価格が急騰し、富山県の主婦たちが米の安売りを求めて立ち上がりました。その動きは全国に広がり、約70日間で延べ100万人ともいわれる民衆が蜂起する大騒動へと発展します。軍隊まで動員された事態の責任をとり、寺内正毅内閣は総辞職。その後を受けた原敬は、立憲政友会を基盤とする本格的な政党内閣を組織しました。「平民宰相」と呼ばれた原敬の登場は、大正デモクラシーの流れを象徴する出来事として歴史に刻まれています。

この記事のポイント

  • 1918年夏、シベリア出兵を見込んだ米の買い占めなどで米価が急騰
  • 富山県の主婦たちの行動をきっかけに、全国へ米騒動が拡大
  • 軍隊まで出動する騒ぎとなり、寺内正毅内閣が総辞職
  • 原敬が立憲政友会を基盤とする本格的政党内閣を組織(第19代首相)
  • 原敬は華族でなく衆議院議員のまま首相となり「平民宰相」と呼ばれた
  • 大正デモクラシーの流れのなかに位置づく重要な転換点
ここが面白い

富山の主婦たちの行動が全国に飛び火。軍隊まで出動した民衆運動が、日本初の本格的政党内閣を生んだ。

ここに至るまでの流れ
背景

米騒動は突然起きた出来事ではありません。第一次世界大戦下の日本の経済・社会状況が積み重なった末の爆発でした。

第一次世界大戦と日本の好景気・格差

1914年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパ列強が戦場に没頭するなか、日本に空前の輸出ブームをもたらしました。造船・製鉄・紡績が伸び、「成金」と呼ばれる新富裕層が生まれます。しかし物価も同時に上昇し、都市労働者や農漁村の庶民の実質的な生活水準は改善されないままでした。

シベリア出兵と米の買い占め

1918年、ロシア革命に干渉するためのシベリア出兵が決定されると、大量の軍用米が必要になるとの観測が広まりました。商人や地主が先を見越して米を買い占め・売り惜しみをしたため、米価は急激に上昇しました。都市の労働者や下層の農民にとって、主食の米が手に入らない事態は生死に関わる問題でした。

大正デモクラシーの気運

この時代、吉野作造が「民本主義」を唱え、民衆の政治参加を求める声が高まっていました。超然内閣(陸軍出身の寺内正毅内閣など、政党を基盤としない内閣)への批判も強まり、民意を反映した政党政治を求める声が全国に広がっていました。米騒動はその社会的な不満と結びついて、より大きな政治的変動を引き起こすことになります。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

富山の主婦たちの行動(発端)

≒ SNSなき時代の「口コミ」で広がった民衆運動

1918年7月、富山県魚津の主婦たちが米の安売りや積み出し阻止を求めて立ち上がった。この動きが新聞で報道されると全国へ飛び火し、都市部・農村・炭鉱など各地で米商人や地主への押しかけ・打ち壊しが続発した。

軍隊の出動と戒厳的措置

≒ 「警察だけでは手に負えない」規模になった民衆蜂起

騒動が各地に拡大し、警察だけでは対処できなくなったため、各地で軍隊が出動した。政府は新聞に報道規制をかけたが、騒動はおよそ70日間続いたとされる。

寺内内閣の総辞職と原敬内閣の成立

≒ 責任を取った内閣の退場と、民意を受けた政治家の登場

騒動の拡大に対処できなかった寺内正毅内閣は同年9月に総辞職。後継として立憲政友会総裁の原敬が組閣し、陸・海・外務大臣を除く閣僚を政友会員で固めた本格的政党内閣を成立させた。

前後のできごと
年表
1914
第一次世界大戦第一次世界大戦勃発(〜1918)。日本は連合国側として参戦し、輸出増大で好景気に。一方で物価も上昇。
1915
二十一か条の要求大隈重信内閣が中国に二十一か条の要求を突きつけ、国内外の批判を受ける。
1918
米騒動夏、富山から始まった米騒動が全国へ拡大。寺内正毅内閣が総辞職。
1918
原敬内閣9月、原敬が本格的政党内閣を組織。「平民宰相」として注目を集める。
1920
国際連盟国際連盟が発足。日本は常任理事国に。戦後国際秩序への参加。
1921
原敬暗殺原敬が東京駅で暗殺される。政党内閣の時代に影を落とす事件となった。
1923
関東大震災関東大震災が発生。政治・社会に大きな打撃。
1925
普通選挙法25歳以上の男子に選挙権を認める普通選挙法が成立。大正デモクラシーの到達点の一つ。同時に治安維持法も制定。
結果とその後
結果
原敬内閣の成立により、日本で本格的な政党内閣が実現。民意を背景とした政治の転換点となった。
「平民宰相」として期待を受けた原敬も1921年に暗殺される。政党政治は戦間期の不安定な情勢のなかで揺れ続けた。
登場人物
人物

原敬

立憲政友会総裁・第19代内閣総理大臣

岩手県出身。爵位を持たず衆議院に議席を持つ初の首相として「平民宰相」と呼ばれた。1921年、東京駅で暗殺される。

寺内正毅

第18代内閣総理大臣(米騒動時の首相)

陸軍出身の超然内閣の首相。米騒動の責任をとり1918年9月に総辞職。

吉野作造

政治学者・民本主義の提唱者

1916年に「民本主義」を唱え、普通選挙と政党政治の必要性を論じた大正デモクラシーの代表的論客。

キーワード解説
用語
米騒動
1918年夏から約70日間にわたり、米価の高騰に反発した民衆が全国各地で米商人・地主らに押しかけた騒動。富山県が発端とされる。
政党内閣
議会で多数を占める政党を基盤として組織された内閣。閣僚の多数がその政党の党員で構成される。原敬内閣は日本初の本格的政党内閣とされる。
平民宰相
原敬の呼び名。爵位(華族の称号)を持たず、衆議院議員のまま首相に就任したことから、庶民出身の首相として注目された。
大正デモクラシー
大正時代を中心に起きた民主主義的・自由主義的な社会・政治運動の総称。吉野作造の民本主義や普通選挙運動などが代表例。
シベリア出兵
1918年、ロシア革命に干渉するため日本などの連合国がシベリアへ軍を派遣した。日本は最多の兵力を派遣し、1922年(一部は1925年)まで継続した。
超然内閣
政党の支持を基盤とせず、軍人・官僚などを中心に組織された内閣。寺内内閣はその代表例で、「非立憲」と批判された。
もっと知りたい
豆知識

1「富山の女一揆」はなぜ主婦だったのか

発端となった富山県魚津周辺は、出稼ぎで夫が不在の家庭が多く、主婦たちが家計と食料の確保を担っていた。夫が漁師や鉱山労働者の家庭では、米代の値上がりは即座に家族の食卓を直撃した。そのため主婦たちが自ら行動に出たとされる。

2「新聞は書くな」――政府の報道規制

政府は騒動の拡大を恐れ、新聞各社に報道を自粛させた。しかし大阪朝日新聞が「白虹貫日」(不吉な現象が現れた)という記事を掲載し、発禁・社長辞職に追い込まれた事件も起きた。報道規制がかえって民衆の不満を高めたともいわれる。

3「平民宰相」の実像

原敬は岩手の士族の出身で、実際には「農民や庶民」ではなかった。「平民」とは爵位(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵)を持たないという意味で使われた。衆議院議員のまま首相に就任した点が、当時としては画期的だった。

4騒動の規模はどれくらい?

騒動が発生した道府県は38道府県、参加した民衆は延べ100万人超ともいわれる(史料によって数字は異なる)。検挙者数も数万人規模に達し、死者も出た。日本史上最大規模の民衆運動の一つとされる。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
語呂は「いく(19)いや(18)」。1918年、米騒動→原敬内閣の順番で覚える。
米騒動の発端は富山県の主婦たちの行動(漁村の主婦説が有名)。
米騒動の責任をとったのは寺内正毅内閣(陸軍出身の超然内閣)。
原敬内閣のポイント①:立憲政友会を基盤とした本格的政党内閣。
原敬内閣のポイント②:原敬は爵位なし・衆議院議員のまま首相=「平民宰相」。
大正デモクラシーの流れ(吉野作造の民本主義→米騒動→普通選挙法1925)を一本の線でつなげること。
語呂クイズ
「行くいや(1918)、米よこせの米騒動」= 米騒動・原敬内閣は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 米騒動はどこで始まりましたか?
A. 富山県(現在の魚津市周辺)の主婦たちの行動が発端とされています。漁村で夫が不在の家庭が多く、主婦が家計を担っていたため、米価の高騰が直撃しました。
Q. なぜ米の値段が上がったのですか?
A. シベリア出兵を見込んだ商人・地主による買い占めや売り惜しみが主な原因の一つとされています。第一次世界大戦中の物価上昇も背景にあります。
Q. 原敬はなぜ「平民宰相」と呼ばれましたか?
A. 爵位(華族の称号)を持たず、衆議院議員のまま首相になったからです。それまでの首相の多くは公侯伯子男の爵位を持つ華族だったため、大きな話題となりました。
Q. 政党内閣と超然内閣の違いは何ですか?
A. 政党内閣は議会で多数を持つ政党を基盤として組織された内閣です。超然内閣は政党に頼らず、軍人や官僚などを中心に組織された内閣で、「民意を無視している」と批判されました。
Q. 大正デモクラシーとの関係は?
A. 米騒動は民衆の政治参加を求める大正デモクラシーの流れのなかに位置します。この後、普通選挙を求める運動が活発化し、1925年の普通選挙法成立へとつながります。
まとめ

米騒動は「食べ物をよこせ」という民衆の切実な叫びから始まりましたが、その結果として日本に本格的な政党政治をもたらしました。「いく(19)いや(18)」の語呂で1918年を覚えたら、米騒動→寺内内閣総辞職→原敬の平民宰相という流れをセットで押さえましょう。大正デモクラシーのなかで民意が政治を動かした象徴的な出来事として、その意義は現代にも通じます。

編集メモ(ファクト)
「延べ100万人超」「約70日間」「38道府県」などの数値は研究者・資料によって異なる。断定的表現は避け、「とされる」「ともいわれる」で記述した。
騒動の発端については「魚津の女房ら」とする説が広く知られるが、史料の解釈に諸説あるため「富山県の主婦たち」と表現した。
原敬の出自(士族)については、「平民」が爵位なしの意味であることをtriviaおよびfaqで補足した。
シベリア出兵と米価高騰の因果関係は複合的であり、買い占めだけが原因ではない。「主な原因の一つ」「見込んだ」という表現にとどめた。