明治の帝国主義 ③中学/外交
1910
韓国併合
寺内正毅(第3代韓国統監・初代朝鮮総督)/桂太郎(内閣総理大臣)
語呂
覚え方
行くひとまる、韓国併合
行く(1・9)ひと(1)まる(0)
1910年(明治43年)8月22日、日本は韓国(大韓帝国)との間に「韓国併合ニ関スル条約」を結び、大韓帝国を完全に日本の領土に編入しました。これが韓国併合です。日本は朝鮮半島を植民地とし、統治機関として朝鮮総督府を置きました。この出来事は1905年の第二次日韓協約(保護国化)と、1909年の伊藤博文暗殺という二つの大きな節目を経て起きたものであり、その後1945年の敗戦まで35年間続く植民地支配の始まりとなりました。
この記事のポイント
- 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国が日本に併合された
- 前段として1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で韓国を保護国化し、統監府を設置
- 初代統監の伊藤博文が1909年にハルビンで安重根に暗殺された後、強硬路線が加速
- 初代朝鮮総督に寺内正毅が任命され、武断政治(憲兵警察制度)が敷かれた
- 朝鮮半島は1945年の日本敗戦まで35年間、日本の植民地支配下に置かれた
ここが面白い韓国皇帝は条約に「御璽(ぎょじ)」を押さなかった。調印したのは内閣総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)だった。
韓国併合は突然起きた出来事ではありません。日清・日露という二つの戦争を通じて日本が朝鮮半島への影響力を強め、保護国化から完全併合へと段階的に進んでいった流れがあります。
日清戦争と朝鮮半島への影響力拡大
1894年の日清戦争で日本は清(中国)を破り、下関条約で朝鮮が清の宗主権下から切り離されました。これにより日本が朝鮮半島への影響力を強める足がかりができました。しかし直後の「三国干渉」でロシア・フランス・ドイツに圧力をかけられ、遼東半島を返還せざるをえませんでした。
日露戦争と保護国化(1905年)
1904〜05年の日露戦争で日本はロシアを破り、ポーツマス条約で朝鮮に対する優越権を国際的に認めさせました。同年11月、第二次日韓協約(乙巳条約)が結ばれ、大韓帝国の外交権が日本に移り、韓国統監府が設置されました。初代統監には伊藤博文が就任しています。
高宗の密使事件と第三次日韓協約(1907年)
韓国皇帝・高宗はハーグ万国平和会議(1907年)に密使を送り、国際社会に訴えようとしました(ハーグ密使事件)。これを口実に日本は高宗を退位させ、第三次日韓協約で韓国の内政権も掌握。韓国軍も解散させました。
伊藤博文の暗殺(1909年)
1909年10月、初代韓国統監だった伊藤博文が、中国・ハルビン駅頭で朝鮮の独立運動家・安重根(アン・ジュングン)に暗殺されました。この事件は翌年の強硬的な併合論を後押しする一因となりましたが、因果関係については諸説あります。
韓国併合条約の調印
≒ 国家の消滅と主権移転1910年8月22日に調印、29日に公布・施行。「韓国」という国名が消え、「朝鮮」と改称された。
朝鮮総督府の設置
≒ 植民地統治機関統監府に代わり、朝鮮総督府が設置された。初代総督は寺内正毅。陸海軍大将が総督に就任する規定で、強大な権限をもって統治した。
武断政治の開始
≒ 軍事力による強権支配憲兵警察制度が敷かれ、憲兵が民間の警察業務も担当。集会・結社・言論が厳しく制限された。
1894日清戦争日本が清を破り、朝鮮半島への影響力を強める足がかりを得る。
1902日英同盟イギリスと同盟を結び、対ロシア政策の外交的後ろ盾を確保。
1904日露戦争開戦。日本海海戦などに勝利し、翌年ポーツマス条約を結ぶ。
1905保護国化第二次日韓協約(乙巳条約)で韓国の外交権を接収。統監府設置・初代統監に伊藤博文。
1907内政権掌握ハーグ密使事件を口実に高宗を退位させ、第三次日韓協約で内政権も接収。
1910韓国併合韓国併合条約調印(8月22日)、公布・施行(8月29日)。朝鮮総督府設置。
1919三・一独立運動朝鮮全土で大規模な独立運動が起きる。日本は統治方針を武断政治から「文化政治」へ転換。
1945解放日本の敗戦により、朝鮮半島は日本の支配から解放される。
△大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は日本の植民地となった。土地調査事業・創氏改名・言語政策など、様々な政策が朝鮮社会に大きな影響を与えた。
△1945年の敗戦まで35年間続いた植民地支配は、現在に至る日韓関係の歴史的背景として議論が続いている。
寺内正毅
第3代韓国統監・初代朝鮮総督陸軍大将。武断政治を主導した。
桂太郎
内閣総理大臣(併合時)第2次・第3次桂内閣。韓国併合を推進した。
伊藤博文
初代韓国統監1905年から統監として保護国化を主導。1909年にハルビンで暗殺された。
安重根
朝鮮の独立運動家1909年10月、伊藤博文をハルビン駅で暗殺。韓国・中国では民族の英雄として評価されている。
高宗(コジョン)
大韓帝国第1代皇帝1907年のハーグ密使事件後に退位を強いられた。
李完用(イ・ワンヨン)
韓国内閣総理大臣韓国側の条約調印者。以後「売国奴」として韓国で強く批判される。
- 統監府
- 第二次日韓協約(1905年)で設置された、日本による韓国保護国統治機関。韓国の外交権を掌握した。初代統監は伊藤博文。
- 朝鮮総督府
- 韓国併合後に設置された植民地統治機関。総督は陸海軍大将に限られ、行政・司法・立法・軍事を一手に握った。
- 第二次日韓協約
- 1905年11月に結ばれた条約(乙巳条約とも)。韓国の外交権を日本が掌握し、事実上の保護国とした。韓国側では「強制された」という見解が強い。
- 武断政治
- 憲兵が警察業務も兼ねる憲兵警察制度に基づく強圧的な統治形態。言論・集会・結社が制限された。
- ポーツマス条約
- 1905年、日露戦争の講和条約。アメリカ(ルーズベルト大統領)の仲介で締結。ロシアは韓国に対する日本の優越権を認めた。
1韓国皇帝は「御璽」を押さなかった
韓国側の調印者は内閣総理大臣の李完用であり、韓国皇帝・純宗は条約書に御璽(国璽)を捺印しなかったとされる。このため韓国側には「条約は無効だった」とする歴史的見解もあり、現在も研究が続いている。
2「韓国」から「朝鮮」へ 国名の変更
併合後、「韓国」という国名は廃され、朝鮮半島は「朝鮮」と呼ばれるようになった。また漢城(ハンソン、現ソウル)は「京城(けいじょう)」に改称された。
3安重根は「伊藤だけが目的ではなかった」と語った
安重根は「伊藤博文を暗殺すれば日本の対朝鮮政策が変わると考えた」と供述した一方で、自身を「大韓義軍の参謀中将」として行動したと主張した。彼の動機と行動の評価は日韓で大きく異なる。
4「韓国」から「朝鮮」へ、併合賛成論が日本国内にも根強くあった
当時の日本の政治家・知識人の中には、「文明化・近代化」の名のもとに植民地支配を正当化する論者が多くいた。一方で社会主義者・幸徳秋水らは批判的な立場をとったが、大逆事件(1910年)で弾圧された。

ここが出る博士のワンポイント
1910年、韓国併合条約で大韓帝国を併合。語呂は「行くひとまる(1910)」。
前段として1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で保護国化→統監府設置→初代統監は伊藤博文。
1909年の伊藤博文暗殺(犯人:安重根)→翌1910年の強硬的な併合へ。
朝鮮総督府(初代総督:寺内正毅)が統治機関。武断政治→1919年三・一運動後に「文化政治」へ転換。
統監府(1905〜1910)と朝鮮総督府(1910〜1945)の時期と役割を区別すること。
語呂クイズ
「行くひとまる、韓国併合」= 韓国併合は西暦何年?
- Q. 韓国併合はいつ、だれが決めたのですか?
- A. 1910年8月22日に韓国側内閣総理大臣の李完用と日本の第3代韓国統監・寺内正毅が条約に調印しました。当時の日本の内閣総理大臣は桂太郎です。
- Q. 統監府と朝鮮総督府の違いは何ですか?
- A. 統監府は1905〜1910年の「保護国」時代の統治機関で、主に外交権を掌握しました。朝鮮総督府は1910年の完全併合後に設置され、行政・司法・立法・軍事すべてを一手に握りました。
- Q. 伊藤博文はなぜ暗殺されたのですか?
- A. 朝鮮の独立運動家・安重根が、日本の対朝鮮支配政策の象徴として伊藤を標的にしたとされています。安重根は15項目の「罪状」を挙げていました。
- Q. 韓国併合は国際法上有効だったのですか?
- A. 日本政府は有効との立場をとっていましたが、韓国側や一部の国際法学者は条約締結が強制によるものであり無効だったと主張しています。1965年の日韓基本条約は「もはや無効」という表現を使い、解釈の余地を残しています。これは現在も研究・議論が続いているデリケートな問題です。
- Q. 韓国併合はいつ終わりましたか?
- A. 1945年8月15日の日本の敗戦により、朝鮮半島は日本の支配から解放されました。35年間の植民地支配が終わり、後に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。
1910年の韓国併合は、日清・日露という2つの戦争と、1905年の保護国化という段階を経た帰結でした。朝鮮半島は「行くひとまる(1910)」の語呂とともに、日本が帝国主義的拡大を進めた重要な局面として押さえておく必要があります。植民地支配の評価は現在も日韓で議論が続いており、歴史的事実を正確に把握したうえで、多角的な視点をもつことが求められます。
編集メモ(ファクト)
第二次日韓協約(1905年)の強制性・有効性については韓国側・国際法学界で異論があり、「諸説あり」として断定を避けた。
伊藤博文暗殺が韓国併合の「直接原因」かどうかは諸説あり、「一因となった」という表現にとどめた。
条約の御璽(国璽)不捺印問題は実際に研究されているが、確定的事実として断定できない部分があるため注記扱いとした。
安重根・李完用などの人物評価は日韓で大きく異なるため、客観的記述に徹した。