語呂で覚える日本史年号語呂合わせ・日本史暗記
一覧 / 明治時代 / 日清戦争(治外法権の撤廃も同年)
日清戦争(治外法権の撤廃も同年)の浮世絵イラスト
明治の対外戦争 ①中学/戦乱
1894

日清戦争(治外法権の撤廃も同年)

伊藤博文(内閣総理大臣)/陸奥宗光(外務大臣)
語呂
覚え方
一発急所(1894)に日清戦争
いっぱつ(18)きゅうしょ(94)

1894年(明治27年)、朝鮮半島をめぐる対立から日本と清(中国)のあいだで戦争が起きました。日清戦争です。きっかけは朝鮮で起きた甲午農民戦争(東学党の乱)で、日本と清がともに出兵したことで関係が一気に緊張しました。戦争は翌1895年まで続き、日本の勝利で幕を閉じます。講和条約の下関条約では、清が朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲するとともに多額の賠償金を支払うことになりました。一方、直後にロシア・フランス・ドイツから三国干渉を受け、日本は遼東半島を清に返還しています。また開戦と同じ1894年、外務大臣・陸奥宗光の尽力により日英通商航海条約が締結され、長年の懸案だった領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功しました。

この記事のポイント

  • 1894年、朝鮮での甲午農民戦争への出兵をきっかけに日本と清が開戦
  • 陸海ともに日本が優勢を保ち、1895年の下関条約で日本が勝利
  • 清は朝鮮の独立承認・遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲・賠償金を認めた
  • 直後にロシア・フランス・ドイツの三国干渉で遼東半島を清に返還
  • 同1894年、日英通商航海条約で領事裁判権(治外法権)の撤廃を実現
ここが面白い

開戦と同じ年に「治外法権の撤廃」も実現した。外交と戦争が同時進行した激動の1894年。

ここに至るまでの流れ
背景

日清戦争は突然起きたわけではありません。明治維新後の日本が「近代国家」として国際社会に認められようとするなかで、朝鮮半島をめぐる日清の対立が少しずつ積み重なっていきました。その流れを順番に見ておきましょう。

朝鮮半島をめぐる日清の関係

朝鮮は長く清(中国)の冊封体制のもとにありました。一方、明治政府は1876年に日朝修好条規を結んで朝鮮との外交関係を樹立し、朝鮮での清の影響力を排除しようとしました。1882年の壬午軍乱・1884年の甲申事変でも日清両国が関与し、その都度条約で折り合いをつけながら緊張状態が続いていました。

条約改正の悲願—治外法権の撤廃

明治政府の外交上の最重要課題の一つが、幕末に結ばれた不平等条約の改正でした。特に領事裁判権(外国人が日本国内で罪を犯しても日本の法律で裁けない)の撤廃は急務とされてきました。外務大臣の陸奥宗光は粘り強い交渉を続け、1894年7月、日英通商航海条約に調印。領事裁判権の撤廃がついに実現しました。

甲午農民戦争(東学党の乱)の勃発

1894年春、朝鮮南部で農民・民衆を中心とする大規模な蜂起(甲午農民戦争・東学党の乱)が起きました。朝鮮政府は清に鎮圧の援軍を要請。日本も対抗措置として軍を派遣し、朝鮮国内で日清両国の軍隊が対峙する事態になりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

甲午農民戦争への出兵と開戦(1894年)

≒ 現地情勢を口実にした大国間の衝突

農民蜂起が鎮静化した後も日清両国はともに撤兵せず、朝鮮内政改革をめぐる対立から7月に戦闘が始まった。8月に正式に宣戦布告。

陸海での戦闘(1894〜1895年)

≒ 最新軍備を持つ日本軍の優勢

海では豊島沖海戦・黄海海戦で日本海軍が勝利。陸では平壌・旅順などで日本陸軍が清軍を破り、威海衛も陥落させた。

下関条約(1895年4月)

≒ 勝者が条件を決める講和交渉

伊藤博文・陸奥宗光(日本側)と李鴻章(清側)が下関で交渉。清は朝鮮の独立承認・遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲・賠償金2億両(テール)の支払いを認めた。

三国干渉(1895年4月〜5月)

≒ 列強の外交圧力による巻き戻し

下関条約の直後、ロシア・フランス・ドイツが「遼東半島の領有は東アジアの平和を乱す」として返還を要求。日本は国力の限界を認めて応じ、清に遼東半島を返還した(三国干渉)。

前後のできごと
年表
1889
大日本帝国憲法大日本帝国憲法が発布され、立憲国家としての枠組みが整う。対外的にも条約改正交渉の背景となった。
1890
第一回帝国議会帝国議会が開設。政府と政党の攻防が始まるなか、外交・軍備が主要テーマになる。
1894
日英通商航海条約7月、陸奥宗光の外交交渉が実り、イギリスとの間で新条約調印。領事裁判権(治外法権)の撤廃が実現した。
1894
開戦8月、日本が清に宣戦布告。甲午農民戦争への出兵を機に、朝鮮半島をめぐる日清の対立が全面戦争に発展。
1895
下関条約4月、伊藤博文・陸奥宗光(日本側)と李鴻章(清側)が下関で講和条約に調印。日本が勝利。
1895
三国干渉4〜5月、ロシア・フランス・ドイツの圧力により、日本は遼東半島を清に返還。ロシアへの警戒感が高まる。
1902
日英同盟南下政策を進めるロシアへの対抗として、日本とイギリスが同盟を締結。
1904
日露戦争三国干渉で遼東半島を奪ったロシアとの対立が続き、朝鮮・満州の支配権をめぐり日本がロシアと開戦。
結果とその後
結果
下関条約で台湾・澎湖諸島の割譲と多額の賠償金を獲得。同年、領事裁判権(治外法権)の撤廃にも成功し、明治政府の二大悲願の一つが実現した。
三国干渉で遼東半島を返還させられ、国民に強い屈辱感が残った。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉が流行し、ロシアへの対抗意識が高まった。
台湾の植民地化・朝鮮への影響力拡大が進み、その後の韓国併合(1910年)や日中関係の悪化につながる出発点ともなった。
登場人物
人物

伊藤博文

内閣総理大臣(兼・下関条約の日本側全権)

大日本帝国憲法の起草者でもある明治の元勲。下関条約で清側全権・李鴻章と交渉した。

陸奥宗光

外務大臣(兼・下関条約の日本側全権)

「カミソリ大臣」と称された外交の切れ者。日英通商航海条約で治外法権撤廃を実現し、下関条約でも手腕を発揮した。

李鴻章

清の全権大使

清を代表する政治家・外交家。下関条約の交渉で日本側の要求に応じざるを得なかった。交渉中に日本人に狙撃されて負傷するという事件も起きた。

明治天皇

天皇

日清戦争の開戦・講和の詔勅を発布。戦争の最高指揮権を象徴する立場にあった。

キーワード解説
用語
甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年に朝鮮南部で起きた民衆蜂起。東学という宗教思想を奉じた農民・民衆が中心。日清戦争の直接のきっかけとなった。
下関条約
1895年4月、山口県下関で締結された日清戦争の講和条約。日本側全権は伊藤博文・陸奥宗光、清側全権は李鴻章。
三国干渉
1895年4〜5月、ロシア・フランス・ドイツが日本に遼東半島の返還を求めた外交的圧力。日本はこれに応じ、のちのロシアへの対抗意識(「臥薪嘗胆」)につながった。
領事裁判権(治外法権)
外国人が日本国内で犯罪を起こしても、その国の領事館が裁く権利。幕末の不平等条約で認めさせられており、1894年の日英通商航海条約(陸奥宗光)でイギリスとの間で撤廃を実現した。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
三国干渉で遼東半島を返還させられた後、ロシアへの敵意を忘れないよう日本政府・国民が唱えた言葉。中国の故事「薪の上に寝て、肝を嘗める」に由来する。
もっと知りたい
豆知識

1李鴻章が日本で狙撃された

下関条約の交渉中、清の全権・李鴻章が山口県下関を訪れていた際、日本人の暴漢に顔を狙撃され負傷した。この事件により国際世論が日本に不利に働くことを恐れた日本政府は、停戦交渉を早め、賠償金の一部を減額するなど条件面で一定の譲歩を示したとされる。

2台湾では「台湾民主国」が抵抗した

下関条約で日本が獲得した台湾・澎湖諸島は、賠償金2億テール(当時の日本の国家予算の約3年分)とはまた別に取得した領土だった。台湾では日本の統治に反発した住民が「台湾民主国」を宣言して抵抗したため、日本軍が武力で制圧して統治を確立した。

3賠償金で八幡製鉄所が建てられた

下関条約で得た賠償金の一部は、北九州に近代的な製鉄所(官営八幡製鉄所)を建設するために使われた。1901年に操業を開始したこの製鉄所は、日本の重工業の礎となった。

4「一発急所」——語呂の覚え方

1894年の語呂「一発急所(1894)に日清戦争」は、1=い、8=は(ぱ)、9=く(きゅう)、4=しょ(4→よ→し→ しょ)と読む。ワンパンチで急所を突くイメージで1894年を覚えよう。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
開戦は1894年。語呂は「一発急所(1894)に日清戦争」。
講和条約は下関条約(1895年)。全権は伊藤博文・陸奥宗光(日本側)と李鴻章(清側)。
清が認めた内容:①朝鮮の独立承認、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億テール。
三国干渉(ロシア・フランス・ドイツ)で遼東半島を返還→「臥薪嘗胆」でロシアへの対抗意識が高まる。
同1894年、陸奥宗光が日英通商航海条約で領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功した点もあわせて覚える。
語呂クイズ
「一発急所(1894)に日清戦争」= 日清戦争(治外法権の撤廃も同年)は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 日清戦争はなぜ起きたのですか?
A. 朝鮮半島をめぐる日本と清(中国)の対立が原因です。1894年に朝鮮で甲午農民戦争が起きると、日清両国が出兵し、朝鮮内での権益争いが戦争に発展しました。
Q. 下関条約で決まったことは何ですか?
A. 清が①朝鮮の独立を承認し、②遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲し、③多額の賠償金(2億テール)を支払うことが決まりました。
Q. 三国干渉とは何ですか?
A. 下関条約でまず遼東半島を獲得した直後、ロシア・フランス・ドイツが日本に「返還せよ」と圧力をかけてきた出来事です。日本は国力上やむなく応じ、清に遼東半島を返還しました。
Q. 治外法権(領事裁判権)の撤廃はいつですか?
A. 1894年に外務大臣・陸奥宗光がイギリスとの間で日英通商航海条約を結び、領事裁判権(治外法権)の撤廃を実現しました。日清戦争の開戦と同じ年の出来事です。
Q. 日清戦争と日露戦争の違いは何ですか?
A. 日清戦争(1894年)は清(中国)との戦いで、朝鮮半島への清の影響力を排除しました。日露戦争(1904年)は日清戦争後に遼東半島を奪ったロシアとの戦いで、規模・犠牲者ともに日清戦争より大きく、日本にとって初の西洋列強との戦争でした。
まとめ

日清戦争は、明治日本が近代国家として大きく変わる転換点でした。アジアの盟主と呼ばれた清に勝利し、条約改正(治外法権の撤廃)も同じ年に実現するという二重の達成を成し遂げた一方、三国干渉によって遼東半島を取り返され、「臥薪嘗胆」という強い対露感情が国内に生まれました。これがやがて日露戦争(1904年)へつながります。「一発急所(1894)に日清戦争」の語呂とともに、下関条約の内容・三国干渉・治外法権撤廃の3点をセットで押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
賠償金の額は「2億テール(両)」が定説だが、当時の日本円換算は時代・レートにより諸説あるため本文では円換算の断定を避けた。
甲午農民戦争(東学党の乱)は朝鮮側の複雑な内部事情を持つ。本文では「農民・民衆を中心とする蜂起」と表現し、過度な単純化を避けた。
台湾・澎湖諸島の統治過程での抵抗運動(台湾民主国)は trivia に簡潔に記載。本文では史実の断定に注意した表現を用いている。
陸奥宗光の日英通商航海条約は1894年7月16日調印。開戦(8月1日宣戦布告)の直前に当たる。