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山城の国一揆の浮世絵イラスト
中世の民衆自治 ②高校/社会
1485

山城の国一揆

山城国の国人(在地武士)・農民連合
語呂
覚え方
意思はご(1485)山城の国一揆
い(1)し(4)は(8)ご(5)

1485年(文明17年)、山城国(現在の京都府南部)の国人と農民たちが連合し、対立を続けていた畠山政長・畠山義就の両軍に対して「国から出ていけ」と要求、なんとその実現に成功しました。これが山城の国一揆です。その後約8年間、36人の国人が月交代の「月行事」として山城国南部を自治的に支配しました。正長の土一揆(1428年)・加賀の一向一揆(1488年)と並んで、中世の民衆自治を代表する出来事として知られています。

この記事のポイント

  • 1485年、山城国の国人・農民が連合し、畠山氏両軍の撤退を要求・実現させた
  • 応仁の乱(1467年)以来続く畠山政長と義就の争いが直接の引き金
  • 36人の国人が「月行事」として月替わりに自治支配を行い、約8年間継続
  • 惣国一揆(在地勢力が国単位でまとまった一揆)の代表例とされる
  • 1493年、幕府方の圧力や内部対立により自治は終焉
ここが面白い

武士と農民が手を組んで大名軍を国外追放。約8年間、国人36人が月替わりで自治を行った日本初の「自治共和国」。

ここに至るまでの流れ
背景

山城の国一揆を理解するには、その直前の約20年間にわたる応仁の乱の後遺症を知る必要があります。なぜ国人と農民が大名に対抗できたのか、中世の社会構造を踏まえて見ていきましょう。

応仁の乱とその後の混乱

1467年に始まった応仁の乱は、将軍家の後継争いと細川・山名両氏の権力争いが絡み合い、約11年間も続いた大乱です。乱が終わっても各地で守護大名どうしの争いは続き、山城国では畠山政長(東軍)と畠山義就(西軍)が国内を舞台に戦闘を繰り返していました。

国人と惣村の台頭

中世後期、地方では「国人」と呼ばれる在地武士が勢力を持つようになっていました。また農民たちも「惣」(惣村)という自治的な共同体をつくり、自分たちで村を守る力をつけていました。こうした地域の実力者たちが連携することで、守護大名に対抗できる組織力が生まれていたのです。

正長の土一揆と加賀の一向一揆

1428年の正長の土一揆では、近畿地方の農民が大規模に蜂起し、徳政令(借金帳消し)を勝ち取りました。山城の国一揆はその流れを引き継ぎ、さらに武士と農民が団結するという形に発展した画期的な出来事です。同じ1485年代には加賀(1488年)でも一向宗の信者たちが守護大名を追い出す加賀の一向一揆が起きています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

両軍への撤退要求と実現

≒ 住民が武装勢力の排除に成功した事例

1485年12月、山城国の国人・農民約40名が宇治平等院に集会を開き、畠山両軍に対して国外退去を要求。翌年にかけて両軍の撤退を実現させた。

月行事による自治支配

≒ 月替わりの持ち回り自治制度

36人の国人が月交代で「月行事」を務め、法令の制定・裁判・租税徴収を行う自治体制を築いた。守護や守護代を介さない直接統治の試みとして注目される。

約8年間の自治継続と終焉

≒ 自治政府の成立と崩壊

1485年から1493年まで約8年間にわたって自治が続いたが、幕府方の介入や国人間の内部対立により崩壊。惣国一揆の限界もあわせて示した出来事となった。

前後のできごと
年表
1467
応仁の乱応仁の乱勃発。以後、畠山政長・義就が山城国南部で争いを続ける。
1485
一揆成立国人・農民が宇治平等院で集会。畠山両軍に撤退を要求し、実現させた。
1486
自治開始36人の国人による月行事自治が本格化。独自の法令を制定する。
1488
加賀一揆隣国加賀でも加賀の一向一揆が起き、守護大名が追放される(一向宗系)。
1493
自治終焉幕府方の圧力と内部対立により山城の国一揆の自治は終わりを迎えた。
結果とその後
結果
国人と農民の連合が守護大名の軍勢を実際に退けたことで、中世の民衆が政治的主体となりうることを示した。約8年間の自治は日本史上まれな「惣国一揆」の成功例とされる。
幕府・守護体制の圧力や、国人間の利害対立によって自治は崩壊。下剋上の時代にあっても、民衆自治が安定して継続することの難しさを示した。
登場人物
人物

畠山政長

山城国に駐留した守護大名(東軍方)

義就と対立し、山城国南部で長年戦闘を続けた。一揆の撤退要求を受けて軍を引いた。

畠山義就

山城国に駐留した守護大名(西軍方)

政長と争い、国内に被害を与え続けた。一揆の撤退要求を受けて軍を引いた。

山城国人衆36名

一揆の主体・月行事の担い手

在地の武士たちで構成。月交代で月行事を務め、約8年間の自治を担った。

キーワード解説
用語
国人
地方に土着した中小規模の武士。守護大名の家臣でありながら、独自の地盤と武力を持っていた。
惣村(惣)
中世の農村における自治的共同体。村の運営・祭り・用水管理などを農民が話し合いで決めた。
月行事
山城の国一揆で設けられた月替わりの自治担当者。36人の国人が順番に務め、法令・裁判・徴税を行った。
惣国一揆
国単位で在地勢力がまとまって起こした一揆。山城の国一揆はその代表例とされる。
徳政令
借金や土地売買を帳消しにする命令。正長の土一揆など、農民の一揆の際に求められることが多かった。
もっと知りたい
豆知識

1要求書を突きつけた集会は平等院

1485年12月11日、国人・農民代表が宇治の平等院に集まり、畠山両軍に撤退を迫る決議を行った。十円硬貨にも描かれる世界遺産・平等院が、歴史的な政治集会の舞台となっていた。

2女性や農民も集会に参加

史料によると、集会には国人だけでなく女性や農民も加わっており、身分を超えた広範な参加があったとされる。これは当時としては非常に異例なことだった。

336人という具体的な数

月行事を務めた国人の数が36人という具体的な数字で伝わっているのは、組織的な自治がいかに整備されていたかを示す。1か月ごとに担当者が替わる仕組みで、特定の人物への権力集中を防いでいた。

4「惣国一揆」という言葉の発祥

国単位でまとまった一揆を「惣国一揆」と呼ぶが、山城の国一揆はその典型例として日本史の教科書に必ず登場する。正長の土一揆(徳政要求型)・加賀の一向一揆(宗教型)と合わせて中世三大一揆と並べて覚えられることが多い。

日本史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1485年。語呂は「い(1)し(4)は(8)ご(5)」=「意思はご山城の国一揆」。
場所は山城国(現・京都府南部)。対立していた畠山政長と畠山義就の両軍を退けた。
主体は国人(在地武士)と農民。36人の国人が月行事で約8年間自治を行った(1485〜1493年)。
正長の土一揆(1428)・加賀の一向一揆(1488)と並ぶ「中世の民衆自治」の代表例として整理する。
終焉は1493年。幕府方の圧力と内部対立が原因で、自治は崩壊した。
語呂クイズ
「意思はご(1485)山城の国一揆」= 山城の国一揆は西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 山城の国一揆はどこで起きましたか?
A. 現在の京都府南部にあたる山城国(南部)で起きました。宇治平等院が集会場所として使われました。
Q. 一揆を起こしたのは誰ですか?
A. 在地の武士である「国人」と農民が連合して起こしました。国人36人が中心となって月行事による自治体制を敷きました。
Q. なぜ一揆が起きたのですか?
A. 応仁の乱後、畠山政長と畠山義就が山城国で戦闘を続け、農地が荒廃し住民の被害が深刻化したためです。国人と農民が結束して両軍の撤退を求めました。
Q. 一揆はどのくらい続きましたか?
A. 1485年から1493年まで約8年間続きました。その後、幕府方の圧力と内部対立によって自治は終焉しました。
Q. 正長の土一揆・加賀の一向一揆との違いは何ですか?
A. 正長の土一揆(1428)は農民による徳政令要求が中心、加賀の一向一揆(1488)は一向宗の信者による宗教的結束が主体です。山城の国一揆は武士(国人)と農民が連合して国単位の自治を実現した点が特徴的です。
まとめ

山城の国一揆は、大名どうしの争いに巻き込まれ続けた国人と農民が「自分たちの国は自分たちで守る」と立ち上がり、実際に大名軍を退けた画期的な出来事です。約8年間にわたる月行事自治は、日本中世史における民衆自治の最高峰とも評されます。「意思はご(1485)山城の国一揆」と語呂で年号を覚えつつ、正長の土一揆・加賀の一向一揆とあわせて「中世の民衆は動いた」という大きな流れの中で理解しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
集会の日付は1485年12月11日(文明17年)。翌年にかけて両軍の撤退が完了したため、開始年を1485年とする。
自治終焉の1493年は、明応の政変(細川政元によるクーデター)と同年にあたり、室町幕府の混乱と連動している。
「中世三大一揆」の呼称は教科書によって異なる場合があるため、正長・山城・加賀の三つをセットで覚えておくと安全。