
源義家
みなもとの・よしいえ 1039–1106 / 平安・武将・大名
武士の棟梁と仰がれた名将基本データ
- よみ
- みなもとの・よしいえ
- 生没年
- 1039–1106
- 別名
- 八幡太郎
- おもな地位・官職
- 陸奥守・鎮守府将軍
- 父母
- 父は源頼義
- 氏族
- 清和源氏(河内源氏)
- 元服の地
- 石清水八幡宮
どんな人?
源義家(みなもとの・よしいえ)は、東国の武士から棟梁と仰がれた平安時代の名将です。八幡太郎義家とも呼ばれ、源頼義の長男として1051年に始まる前九年合戦で父とともに戦い、武勇で名声を高めました。
1083年からの後三年合戦でも陸奥守として活躍し、雁の列の乱れから伏兵を見抜いたという逸話も伝わります。「武士の鑑」と称され、東国武士の精神的な棟梁として、のちの源氏の勢力基盤を築きました。
おもな業績・つくったもの
- 前九年合戦で安倍氏を討伐(1051年〜)陸奥で国司に抵抗した安倍氏を、父・源頼義とともに長い戦いの末に滅ぼした。この戦いで義家の武名が高まった。
- 後三年合戦で清原氏の内紛を平定(1083年〜)陸奥守として奥羽の豪族・清原氏の後継争いに介入し、清衡を助けて争いを鎮めた。源氏の東国での勢力を強めた戦い。
- 私財で郎党に恩賞を与え東国武士の信望を得る朝廷が後三年合戦の恩賞を私戦とみなし認めなかったため、自分の財産を分け与えて従った武士に報いたと伝わる。
- 武士の棟梁としての源氏の地盤を築く合戦を通じて東国武士と主従関係を深め、武士の棟梁と仰がれた。のちの源氏の勢力基盤を固める礎となった。
生涯のあゆみ(年表)
豆知識
八幡太郎の由来
義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれた。前九年・後三年の合戦での武名は高く、のちに武士の理想像として神格化されていった。
自腹で家来に報いた
後三年合戦で朝廷が恩賞を認めなかったため、義家は自分の財産を分け与えて従った武士に報いた。この行いが東国武士の源氏への忠誠心を育てたと伝わる。
雁の乱れで伏兵を見抜く
後三年合戦で義家は、飛ぶ雁の列が乱れたのを見て野に伏せた敵兵を察知したと伝わる。中国の兵法にならった逸話として語り継がれている。
人物相関
源義家
よくある質問
源義家は何をした人?
前九年合戦・後三年合戦で活躍し、東国の武士から棟梁と仰がれた平安時代の名将です。八幡太郎とも呼ばれ、のちの源氏の勢力基盤を築きました。
なぜ八幡太郎と呼ばれたのですか?
石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれました。前九年・後三年の合戦での武名が高く、のちに武士の理想像として敬われました。
後三年合戦で家来にどう報いましたか?
朝廷が恩賞を認めなかったため、義家は自分の財産を分け与えて従った武士に報いたと伝わります。この行いが東国武士の源氏への信望を育てたとされます。